いまの時代から見ても、無謀とも思える計画だが、構想したのは現在の市長、石見利勝氏の父で、終戦直後の21年から42年まで同市長を務めた元秀氏(故人)だった。市長就任以降、姫路駅と姫路城を結ぶ幅50メートルにおよぶ道路「大手前通り」を整備するなど、今の姫路の都市基盤形成に大きな役割を果たした人物だ。
交通問題解決へ…壮大なプラン
市によると、元秀氏がモノレール導入計画を具現化させるために動き出したのは30年代後半。このころ、乗用車の普及が進み、渋滞や事故など交通問題が深刻化し始めた時期だった。人口も右肩上がりで増加した時代で、交通問題の解決を迫られていた。
市に残された当時の資料には「モノレールは最小の用地で立体交差が可能な一番安い大量輸送機関」との記載が残る。住宅やビルが密集し、増え続ける人口…。当時は地上を鉄道が走り、踏切での事故も多発しており、交通問題の効率的な解決方法が、モノレールの導入だったとしている。
姫路大博覧会では、高架道路とモノレールが循環する姫路の未来像を表現した立体模型が展示され、交通渋滞解消への市の構想の一端が示された。
「当時の記録フィルムによると、石見元秀市長はモノレールが市民に受け入れられれば南は臨海工業地帯、北は姫路城まで路線を延ばし、ゆくゆくは豊岡、舞鶴方面とも接続させる構想を明かしています」