明らかにこのざるっちぇ音は気持ちよく年越しを迎えたいと願う市民に対する暴力であり、ざるっちぇ通るところは、いかに晴天であっても忽(たちま)ち日陰となり、草花はざるっちぇ同様頭を垂れ、不幸の腐臭が漂い始める筈(はず)だ。そんなざるっちぇを背後に抱えてしまった私は、歩を緩めるという作戦の失敗により明らかに動転し、次の手を打てぬまま、ざるっちぇと極めて近い距離を保ったまま、僅(わず)か数メートル歩いただけなのかもわからぬが、巨大な蟻地獄に足を滑らせたような心地でいた。
さっさと歩調を速めてしまえずにいるのは、一度歩調を緩める作戦に出てしまったため、すぐさま早足に切り替えては、ざるっちぇの気分を害してしまうのではないかという余計な想像力が働いてしまったからで、しかし何故そんなざるっちぇの気分まで想像してしまったかというと、そのざるっちぇな歩みは再三再四著しているよう、明らかに異様であり、それは公共の道を歩くのに絶対的に相応(ふさわ)しくない不快音で、極めて意図的に立てているという可能性、つまり住宅街の長閑(のどか)な年越しを破壊する決意のようなものを抱いている可能性も充分にあり、帰ってビールでも飲むかねえ、なんてへらへらと気持ち良さそうに買い物袋を下げている私の後ろ姿に対して殺意を抱いている可能性もこれまた充分にあり、私が歩を速めたと同時にざるっちぇも同様にペースを合わせてくるかもしれないと考えただけで大変恐ろしいことだと思い、決断出来ずにいたのだ。