では何のために撮っているのか。写真というのはそもそも思い出を刺激する装置ではなかったのか。
或る友人は、撮っている行為そのものが思い出になる、というようなことを言っていた。確かにこの友人と出掛けた際、両足で高くジャンプしたその最高到達点を激写するというような奇抜な試みをする。その撮れたての跳躍写真を見て大笑いし、更なる面白さを目指してジャンプするという行為自体が強烈な思い出となっているのは事実だ。周りの情景も鮮明。行為としての撮影そのものが思い出となっている。その場で撮れたてを液晶画面で楽しむところは、ポラロイドカメラやチェキの感覚に近いのか。手元に物質としての写真が残らないだけで、遊び、享楽として成立しているのかもしれない。
五感で記憶する方が残る
では思い出を懐かしく刺激する装置としての写真の役割は現在もう死んだのか。勿論思い出作りなのだ。この素晴らしい風景をこの瞬間だけのものにしたくないその思いがシャッターを切らせる。この風景を持ち帰りたい自分のものにしたい保管しておきたい。そしてぶれずに、それなりに満足のゆく構図が収められれば完了。しかしこれらはほぼ見返さない(勿論プロは別だし、写真を趣味としている人も別だが)。