付近に住む70代の主婦は、「裕福でやさしい一家だった。よく電話を貸してもらったよ。工場が燃え上がり、炎が高く高く夜空にのびていったのを今でも覚えている」と話した。
生い茂った庭木に囲まれて、2階建ての家屋が建っている。事件後に建てられたこの家で、家族で唯一生き残った長女がひっそりと暮らしていた。近所づきあいはほとんどなかったという。「何か怒ったようにつぶやきながら歩いている姿を何度か見かけた。事件がらみのことを言っていたようにも聞こえた」と前述の主婦は言う。
長女は、袴田さん釈放の翌日、家の中で亡くなっているところを家族に発見された。死因について、清水署は「一切ノーコメント」という立場だ。
別の70代女性は「今ごろ『裁判は間違いだった』といわれても。事件の証人も、もうほとんどいない。こういうことは、早くやってもらわないと」と困惑気味に話していた。
「幸せそうな一家」は消え去り、袴田さんと長女の失われた48年間も元には戻らない。現場では、事件がいまだに生々しい重苦しさを放っていた。(静岡支局次長 岡本耕治/SANKEI EXPRESS)