「われわれのイメージは東日本壊滅ですよ。本当に死んだと思った」
吉田調書によると、2011年3月14日、2号機の原子炉格納容器の圧力が上昇し注水もできない危機的状況に陥った際、吉田氏はこのような表現で当時を振り返った。これまで明らかにされていなかった現場からの認識だ。
吉田氏は事故後、一度も記者会見を開いていない。吉田調書を作成した政府の事故調査・検証委員会の報告書は、事故の原因や状況を冷静に分析することに努めているため、吉田氏の肉声はほとんど記載されていない。未曽有の事故が進展する中、現場指揮官がどう考え、どう動いたか、これまで伝えられなかったことの方が異常だった。
メディアに吉田氏が初めて登場したのは、第1原発が報道陣に公開された11年11月。事故から8カ月を過ぎており、許されたのはごく短い時間のいわゆるぶら下がり取材だけだった。メディアの取材依頼は殺到するものの、吉田氏はその後、健康診断で食道がんが見つかり、11年12月に所長を退任。体調は戻らず、13年7月に他界した。