《業界評でひどいとされた映画が一転、米国の言論の自由を守り、米国人の政治的立場をたたえる愛国映画になった》
ならば問う。《言論の自由を守る映画》が中国に在りや?
(2014年12月)23日付環球時報の論評も、《言論の自由》が《米国人の政治的立場》ではなく、米国と米国人そのものであることを、中国が皮膚感覚で理解できていない証左で、哀れでさえあった。
《米国は些細な事象を大げさに取り扱う》
《言論の自由》を《些細》と一蹴。異形ぶりを、国際社会に向けてダメ押し発信するセンスのなさ=独善。だのに、説教がましく故事成語を駆使して能書きを垂れる。垂れるほどに独善は滑稽味を帯びていく。国連総会が北朝鮮の人権侵害を国際刑事裁判所に付託せんと、安全保障理事会に促す決議を採択(2014年12月18日)するに当たり、中国の国連大使は言った。各国代表の冷笑をかう悲劇、否、喜劇を演じたとも知らずに…
「人権問題を(安保理で)政治化する方針に反対する」
少数民族虐殺を国際社会が非難する度「内政干渉」と言い訳してきたではないか。中国自らが「人権問題」すなわち「政治」だと認めてきた理屈を忘れている。北朝鮮や中国のように、虐殺に痛痒を感じぬ国家に当事者・自浄能力がない以上、安保理以外どこで「政治」化できるのか。