怖い気持ちなかった
1944年夏、早川さんは「気象兵」として武蔵に乗艦した。暗号電報を基に天気図を作成し、雲や潮流などの情報を見て艦長らに報告する役目だった。
「気象班」にいたのは北海道、栃木、静岡の出身者ら。「海軍なのに意外と内陸の出身者が多かった」と振り返る。
早川さんの証言では、米軍機は、武蔵が沈没するまでに複数回、魚雷や爆弾の波状攻撃を仕掛けてきた。それでも当初は「不沈戦艦だから怖いという気持ちはなかった」。
早川さんは副砲近くにある艦内の気象室にいた。「最初は速度もあり、見張りもいたので魚雷をかわせた。主砲も撃っていた」。主砲の発射と魚雷の命中では揺れ方が違い、同僚と回数を数えたりしていたという。
攻撃の回数が増えるにつれ、左に傾いて艦首が漬かり始め、艦尾が持ち上がった状態に。「爆弾や魚雷がすごく当たるようになり(米軍機は)もうやりたい放題」
最後の爆撃で、気象室でも2人が即死し、早川さんも負傷した。ハッチをこじ開けると、10人ほどの遺体が前に積み重なっていた。