発端は2014年2月、ウクライナの首都キエフで親露派のビクトル・ヤヌコビッチ政権(当時)が転覆した政変だった。その前年の11月、ヤヌコビッチ政権が欧州連合(EU)との自由貿易協定(FTA)締結を見送ったことに抗議する大規模デモが政権を追いやった。
「自国の将来は、ロシアでなく自分たちで決める」「ウクライナは欧州の一員となるべきだ」。キエフのデモに参加した人々は、汚職への怒りなどとともに、こんな言葉を口にした。
これに反発したのが、ロシア系住民が多数派の南部クリミア半島や、死者6000人超を出す紛争になった東部2州だった。ロシアは昨年3月にクリミア半島の併合を宣言し、東部2州の親露派勢力を焚きつけた。
ただ、東部ドネツクの政治学者、セルゲイ・チェピク氏(48)は「戦闘に参加した多くが地元民である現実も直視すべきだ」とし、ロシアの介入には住民の意識という素地があったと指摘する。「この紛争はウクライナ東部と西部の『文明の衝突』にほかならない」。