母は気持ちをこめた無常感と淡々とした寂静感(じゃくじょうかん)を生涯にわたって保っていた人だった。困ったことがあっても「かなんなあ」と言うばかりで、松岡呉服店が倒産しても悲嘆するわけでもなかった。つまりは「うつろひ」にいた人なのである。蒲団に入るとゆっくり「なまんだぶ、なまんだぶ」(南無阿弥陀仏)を唱え、いつのまにか寝入っていた。
【KEY BOOK】「ノンちゃん雲に乗る」(石井桃子著/福音館書店、1296円)
この本は決定的だった。ノンちゃんが木に登ってひょうたん池に落ち、そのまま夢うつつで雲上の家族や友達と遊ぶというたった一日の話なのだが、そうなったのはお母さんとお兄ちゃんが自分に黙って出掛けたからだった。でも木の上から池を覗くと雲がふわふわ映っていたのだ。映画も決定的だった。鰐淵晴子のノンちゃんに憧れ、お母さんの原節子に憧れた。母とは顔も東京弁も似ていなかったが、その気品と気配がぼくを擽(くすぐ)ったのである。