SankeiBiz for mobile

観光名所 再び歴史の表舞台に ウクライナ・クリミア半島

 ウクライナ危機のあおりをうけて、外務省から渡航延期、早期退避勧告がでてしまったが、ウクライナ南部クリミア半島は黒海沿岸随一の観光名所だ。海あり、山あり、草原ありの風光明媚(めいび)なその絶景は、出会う度に、思わず感嘆のため息をもらしてしまうほどだ。

 ロシアに来るのなら、きっと多くの人が手にしているガイドブック「地球の歩き方」ロシア版にも、更新の度に新情報が盛り込まれ、クリミアのことが必ず紹介されている。それでも日本人には観光先としてはなじみの薄い地域とも言えるが、現代史の舞台となった都市、ヤルタのある半島といえば納得される方も多いだろう。

 ヤルタ会談

 ヤルタは第二次世界大戦末期の1945年2月、ソ連のヨシフ・スターリン首相(1879~1953年)、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領(1882~1945年)、英国のウィンストン・チャーチル首相(1874~1965年)が一堂に会し、戦後体制を話し合った場所である。ソ連軍の対日参戦を促す秘密協定が結ばれ、北方領土問題が生まれる端緒にもなった。

 会場となったリバディア宮殿は現在は博物館として一般公開されている。3巨頭が一握りの官僚や通訳と一緒に座った円卓がそのまま保存されており、たばこの煙が充満した当時の張り詰めた雰囲気が伝わってくるようだ。

 一緒に展示されていたのは、会談後の45年2月13日付のソ連共産党機関紙「プラウダ」だった。歴史教科書にも登場する、3巨頭が談笑するかの有名な写真が一面に掲載され、題字横のスペースには声明の一文が抜粋されていた。

 「われわれの断固とした目的は、ドイツの軍国主義とナチズムを打倒し、ドイツが今後、決して世界の平和を破壊することがないような保証の枠組みを作り出すことである」

 ゴルバチョフ幽閉

 こうして大戦後の世界秩序が決められた半島はその46年後、再び国際社会を大きく揺るがした大事件の現場となった。ヤルタから沿岸西方に車を走らせて約1時間。1000メートル級の山々の麓に静かな別荘群が見えてくる。

 フォロス。1991年8月、ソ連最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ大統領(83)がライサ夫人(1932~99年)とともに共産党守旧派に幽閉された場所である。「8月クーデター」とも言われるこの出来事でゴルバチョフ氏の権威は失墜し、ソ連邦は崩壊に至る。

 その別荘もまだ残っている。もちろん場所を示す標識も何もないのだが、幹線道路を走っていると、この地域にはやや不釣り合いなオレンジ色の屋根がすぐに見つかる。別荘に向かう小道だけきれいに舗装されていて、目立っているのである。

 ソ連邦崩壊後の90年代初頭、日本とロシアは新しい関係が結ばれることが期待され、ロシア語ブームが起こった。私もその風潮に乗っかり、大学でロシア語専攻を選んだのだが、まさか記者として自分の人生にも大きな影響を与えたフォロスにやってくるとは考えていなかった。

 ゴルバチョフ氏の別荘は観光地として整備されておらず、近くに売店やレストランがあるわけでもない。しかし、ソ連崩壊後の激動の歴史を振り返るにつけ、別荘を見渡す丘に来れば、きっと多くの人々がさまざまな思いを巡らすに違いない。

 もともとクリミア半島は古代ギリシャ時代に植民都市が造られてから、歴史の表舞台に登場した。その拠点であった、現在のセバストポリにあるヘルソネス遺跡は一昨年、世界遺産にも認定された。15世紀からはチンギスハン(1162?~1227年)の末裔(まつえい)が国を作り、イスラム教文化も栄えた。19世紀のクリミア戦争では激戦地となり、英国の従軍看護婦、フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910年)が負傷した兵士を助けた。

 そして今。ロシアのクリミア併合は21世紀の世界秩序の枠組みを大きく変える端緒になるとも予想されている。いつか平穏が戻った時、人類の歩みを自分の目で、自分の足で体感してほしい場所なのである。(佐々木正明、写真も/SANKEI EXPRESS

ランキング