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奈良 興福寺の薪御能 ゆらめく火影 古式ゆかしく

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奈良 興福寺の薪御能 ゆらめく火影 古式ゆかしく

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火影ゆらめく幽玄の世界へと誘う「薪御能(たきぎおのう)」。演目は観世流能「弱法師(よろぼし)」。平安時代から南都(奈良)興福寺を舞台に演じられた薪御能が、各地で行われる薪能(たきぎのう)の原型といわれている。篝火(かがりび)は膝くらいの低い位置に置かれていた=2014年5月17日、奈良県奈良市登大路町の興福寺南大門跡(田中幸美撮影)  各地で行われている薪能のルーツは奈良の興福寺にあることをご存じだろうか。新緑の古都を彩る「薪御能(たきぎおのう)」が5月16、17の両日、奈良市の春日大社と興福寺を舞台に行われた。薪に火がつけられ火影がゆらめく中で能の幽玄の世界が広がると、約2000人の観客からため息が漏れた。大和猿楽を源流とする奈良発祥の能楽四座(観世、金春、宝生、金剛)が共演、国内で最も古く伝統ある薪能として知られる。

 17日午前には春日大社の摂社、若宮神社で神様に能を奉納する「御社上(みやしろあが)りの儀」と呼ばれる神事が行われ、金春流能「阿漕(あこぎ)」が披露された。通常、能は神様の鎮座する神殿に向かって奉納されるが、御社上りの儀は神殿に背を向けて行われる珍しい形だ。阿漕は、旅の僧が伊勢の阿漕ケ浦で密漁を犯し海に沈められた漁師の霊から懺悔(ざんげ)の物語を聞く演目だ。

 また、午後5時半からは興福寺南大門跡「般若乃芝(はんにゃのしば)」で「南大門の儀」と呼ばれる薪御能が行われ、演能に先立って興福寺衆徒(僧兵)による古式ゆかしい「舞台あらため」が披露された。

 寛永年間に、雨天のため1日も能が行われないことがあり話し合いの末、夜通しで能を行うことを決定したが、興福寺衆徒がこれに反対。紙を敷いて芝の状態を調べたところ紙8枚を通してしまうほど濡れていたために中止したことが舞台あらための始まりという。以降、舞台となる野外の芝に紙を敷いて、それを踏みつけて芝の湿り具合を調べ、能が上演できるかどうかを決めた。現在はその必要はないが、儀式を伝えるために再現している。ちなみに紙は3枚が目安。こうした儀式は興福寺の薪御能だけに見られる儀式だ。

 ≪風の音、鳥の声 幽玄世界を演出≫

 南大門の儀では、金春流による「葛城(かつらぎ)」と観世流による「弱法師(よろぼし)」の能2曲、また、能の合間には大蔵流狂言「魚説教(うおぜっきょう)」が演じられた。

 「弱法師」は、人のざれ言で息子を追放してしまった父が、弱法師と呼ばれる盲目のこじき法師となった息子と再会し和解するという物語。弱法師の心の闇と光が火影と相まって心に迫ってくる。

 また、「魚説教」は、お経をまだ習っていない修行僧が魚介類の名前を盛り込んで堂々といんちきなお経を唱える狂言で、終始観客の笑いを誘っていた。

 時折耳に入る喧噪(けんそう)も時間の経過とともに次第に薄れ、代わって風の音や鳥のさえずり、鐘の音が能の謡や鼓の音と絶妙に絡まり、幽玄の世界を演出した。

 京都市の旅館勤務、青柳友香さん(29)は「舞台あらためなどを僧兵の格好で行うのが印象的でした。ゆらめく炎によって動かないはずの能面に表情を与えている気がします。ぐっと世界に引き込まれました」とすっかり魅了された様子だった。

 薪能は、神事・仏事の神聖な儀式。起源は平安時代中期にさかのぼり、興福寺の修二会(しゅにえ、旧暦における迎春法要)で催されたものが始まりといわれる。このことから興福寺で行われる薪能には、「御」の字があてがわれ、「薪御能」と呼ばれる。能楽が大成された室町時代には最も盛んになったという。

 明治以降は廃絶状態にあったが、昭和になって薪御能復活の声が高まり1952(昭和27)年、能楽四座による南大門の儀が復活。その後自治体主導で行われるようになり、時期も修二会の行われる3月から5月に移行して現在に至るという。(田中幸美(さちみ)、写真も/SANKEI EXPRESS

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