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井上鑑(あきら)という「音の庭」へ このミュージシャンにこそ、日本の音楽の将来を託したい 松岡正剛

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井上鑑(あきら)という「音の庭」へ このミュージシャンにこそ、日本の音楽の将来を託したい 松岡正剛

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函館のトラピスト修道院の庭で、自著『僕の音、僕の庭』を手にする井上鑑。この静かな風情の奥に、実に自在な音楽力とすこぶるラディカルな思考が秘められている=北海道・函館市(小森康仁さん撮影、松岡正剛事務所提供)  【BOOKWARE】

 冬樹社という小さな版元があった。坂口安吾、岡本かの子、山川方夫の全集を刊行し、月刊誌「カイエ」やポストモダンな季刊誌「GS」なども手掛けていた。そこからふいに井上鑑(いのうえ・あきら)がプロデュースした『カルサヴィーナ』がカセットブックとして結晶のように上梓された。松田行正君がデザインしていた。1984年のことだ。

 タマラ・カルサヴィーナは、ニジンスキーとともに天才興行師ディアギレフが生んだバレエ・リュスの踊り手である。井上鑑はこのイメージを追いかけて、作曲と本作りに挑んだ。佐野元春との収録対談を読むと、このころの井上は「踊るもの」に強いバイブレーションを感じていたようだ。

 それから四半世紀、その鑑さんに本を書いてみたらと勧めたのはぼくだった。そのころ2人は藤本ペコちゃんを加えて、いろいろなシーンづくりの仕事をしていた。すればするほど、このミュージシャンが言葉と音楽と文化を多重に解読していることがわかった。ぜひ、その世界をみんなに広めてほしいと思った。こうして『僕の音、僕の庭』ができた。

 この本には編曲論から音楽プロジェクト論まで、音の佇まいから言葉との出会いまで、ずいぶんたくさんのヒントが詰まっている。音楽関係者にとっては汲めども尽きぬものだらけだろうが、それ以上に、井上鑑がつくった手作りの「音の庭」に遊ぶことが、どれほど豊かな深さと歓びであるのかが伝わってくる。

 たとえば青年の頃にイエス、ウェザー・リポート、フランク・ザッパのナマを聞いたこと、長じてジョン・ケリー、アラン・マーフィー、ピーター・ガブリエルらとロンドンで出会ったことが、井上ののちのちの「音の庭」の名状しがたい風や植栽や香りをもたらしているのだが、それをどう説明するかが、本書ではみごとな解読になっているのだ。

 この才能は、お父さんがチェリストの井上頼豊で、伯母さんが矢川澄子と小池一子であることを持ち出したくなるくらいに、瑞々しい。

 【KEY BOOK】「カルサヴィーナ」(井上鑑著/冬樹社、2500円、在庫なし)

 瀟洒(しょうしゃ)なブックレットとカセットテープが函に入っているお宝もの。冊子のほうは市川雅のカルサヴィーナ論、佐野元春との対談、クロニクル、それに井上鑑独得のヴィジュアル・スコアのようなものが付いている。このスコアの試みは、ぼくはその後何枚も見てきたが、とても含意に富んでいて、おもしろい。対談では、佐野が「サンスクリット語のお経などを聞いているとラップ的なニュアンスを感じる」と言うと、話はクリムゾンからフィリップ・グラスに跳びつつ、いったい日本語でダンスミュージックするとは何かが問われ、言葉と音の蜜月感覚が早くも交わされていた。カセットの音楽には、バレエ・リュスを今日の音楽環境に変換した実験性がひそんでいて、これまた貴重。井上は曲作りのためにガーナのアフリカン・マリンバ奏者のカクラバ・ロビを加えたのだが、譜面はいらないだろうと臨んだところ、何のための音楽かがわからないと弾けないと言われたらしい。祭祀のためか、鎮魂のためなのか。結局、狩りのためになったのだが、このセッションを通して井上は今日の音楽がスタイルだけで進んでしまうことを思い知らされたと、のちに『僕の音、僕の庭』に書いていた。

 【KEY BOOK】「僕の音、僕の庭」(井上鑑著/筑摩書房、3024円)

 この10年間の音楽関係の本でピカ一である。少なくとも一番気持ちがいい本だった。第1章では名アレンジャーとしての秘訣が、寺尾聡の『ルビーの指輪』、大滝詠一の『君は天然色』、福山雅治の『ひまわり』を例に語られる。こんな秘訣、いままで誰も説明してこなかった。ちなみに福山のアレンジはほとんどが井上だ。第2章は音楽づくりのプロセスが、ミーティングの仕方、スタジオ使い、技術と技法との付き合い方などの、これまで見落とされてきた景色を通して浮かび上がる。第3章からいよいよ井上の音楽的な生い立ちが、父君や師匠筋の三善晃や八村義夫をへて、ソロデビューしていく様子までいきいきと描写される。井上が数百曲のCF音楽を手掛けた才能の秘密もよくわかる。第4章は圧巻だ。音と世界と友人を通して、いったいどんな価値観を磨いてきたのか、その骨法がさまざまな交流のスケッチを交えて照射されている。ブリティッシュな音のガーデニング感覚のルーツも見えてきて、必読だ。最後に、ぼくが最も敬意を払ってきた井上流の「音楽と言語の関係」が、格別の襞々と柔らかい膜を煌(きら)めかせて綴られる。さあ、諸君、デビューアルバム『予言者の夢』を聴き給え!(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS

 ■まつおか・せいごう 編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。80年代、編集工学を提唱。以降、情報文化と情報技術をつなぐ研究開発プロジェクトをリードする一方、日本文化研究の第一人者として私塾を多数開催。おもな著書に『松岡正剛千夜千冊(全7巻)』ほか多数。

「松岡正剛千夜千冊」(http://1000ya.isis.ne.jp/

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