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【建山義紀のベースボール サバイバル】必要としてくれた阪神で「もう一踏ん張り」

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【建山義紀のベースボール サバイバル】必要としてくれた阪神で「もう一踏ん張り」

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縦縞のユニホームに袖を通し、ブルペンで投げる建山義紀さん=2014年6月27日、兵庫県西宮市・鳴尾浜球場(安部光翁撮影)  「球威は昔ほどないが、打者の懐を突く攻撃的な投球をみてほしい。右のスペシャリストとして自分の力を示したい」

 6月25日、兵庫県西宮市の阪神球団事務所で新天地での誓いをこんなふうに述べた。会見に同席してくれた中村勝広ゼネラルマネジャーからは「数々の修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨。チーム巻き返しのために大いに貢献してほしい」と期待の言葉をもらった。チームは優勝を狙っている。そこに力添えをしたい。そんな思いでタテジマのユニホームに袖を通した。

 日本ハムをフリーエージェント(FA)になり、たとえマイナーで終わったとしても米国の野球を経験したかった。そんな決意で海を渡ったのが2011年だった。そのとき、一つの決意をした。「アメリカでユニホームを脱ごう」と。つまりは引退。もう日本球界に戻ってくるつもりはなかった。

 昨季途中から在籍したヤンキースの招待選手として今春のメジャーキャンプに参加。オープン戦は7試合で防御率1.13点と手応えがあったが、開幕は3Aで迎えることになった。実のところは予想通りだった。勝負は故障者が出たときにバックアップ要員として呼ばれるか。そのための準備をマイナーで積むつもりだった。

 9試合に投げて結果は残せていなかった。それでも、5月9日の戦力外通告は、予想外に早かった。開幕してからそれほどの時間がたっていない中で突きつけられた現実。年齢的にも新たな球団からオファーが届く可能性は低かった。やりきったという思いもあった。キャッチボールをしたりして次に備えていたが、オファーはどれほど待ってもこなかった。

 やめる覚悟できていた

 「引退」の2文字を受け入れる準備をしなければならない。そんなときに、阪神が声をかけてくれた。

 アメリカでの野球生活は、毎日を悔いなく過ごしてきた。だから、このままやめる覚悟もできていた。だけど、自分を必要としてくれる球団がある。これは、プロ野球選手にとってとてもありがたいことなのだ。かじりついてまで現役に固執するつもりはなかった。もしも、オファーが台湾や韓国、日本の独立リーグからのものであれば断っていた。「日本で最後の一踏ん張り。やってみよう」。気持ちはすぐに固まった。

 2軍の鳴尾浜球場には大阪府大東市の実家から車で通っている。約40分の道のり。家族は米国に残してきた。単身赴任だけど、実家なら食事の心配はない。米国のマイナーでゴムのような肉をたいらげてきた。どんな環境にも順応してきたが、できれば体調管理には万全を期したい。そんな思いもあった。

 いきなりチーム最年長

 大阪で生まれ育った野球少年ゆえに、自然な成り行きで猛虎ファンだった。1985年の日本一はいまも脳裏に焼き付いてる。ファンとして見てきたチームに所属するのは、少し不思議な感覚でもある。

 入団していきなりチーム最年長。特に2軍には若い投手が多く、コミュニケーションを図るにも時間がかかりそうだ。コーチとして入団したわけではないが、聞かれたら、中継ぎとしての気持ちの持ち方など力になれるなら話していきたい。米国でメジャーの強打者と対戦し、マイナーの厳しい現実も目の当たりにし、少々のことではめげなくなった。そのことが強みだ。

 登板数などの数字としての目標はない。チームのために何ができるか。そこに重点を置いて戦っていこうと思う。サバイバルの舞台を日本に移し、再び勝負に挑んでいきたい。(阪神タイガース投手「背番号53」 建山義紀/撮影:安部光翁/SANKEI EXPRESS

 ■たてやま・よしのり 1975年12月26日、大阪府生まれ。東海大付属仰星高、甲賀健康医療専門学校、松下電器(現Panasonic)を経て99年ドラフト2位で日本ハムに入団。2002年から中継ぎ専門で、04年に「最優秀中継ぎ投手」のタイトルを獲得した。11年から米大リーグに挑戦し、今季途中から阪神に入団して日本球界に復帰。大リーガーの上原浩治、元ラグビー日本代表の大畑大介氏は高校時代の同級生。177センチ、78キロ。右投げ右打ち。

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