SankeiBiz for mobile

「忘れられた日本人」救いたい フィリピン残留2世と親族橋渡し

ニュースカテゴリ:EX CONTENTSの国際

「忘れられた日本人」救いたい フィリピン残留2世と親族橋渡し

更新

フィリピンで初対面を果たし固く握手を交わす宮里強さん(左)と、叔母に当たるミヤサト・コンチータさん=2014年5月16日(日本財団提供)  【ソーシャル・イノベーションの現場から】

 沖縄県が本土復帰から42年を迎えた今年5月15日、県南部の南城市(なんじょうし)に住む宮里強さん(54)と、いとこら4人がフィリピンに向けて出発した。フィリピンのミンダナオ島に住む叔母にあたるミヤサト・コンチータ・バシランさん(74)と会うためだ。翌日、ダバオ空港で初対面を果たした。

 コンチータさんは先の第二次世界大戦に翻弄されたフィリピン残留日本人2世の一人。強さんは「対面できてうれしい。やったという気持ち」と笑顔を見せたが、それもつかの間、「戦後70年、何もできず本当に申し訳なかった」と涙を浮かべた。

 戦後の混乱で「無国籍」に

 フィリピン残留2世は、主に第二次大戦の終結までにフィリピンに渡った日本人移民の男性と現地女性との間に生まれ、戦後の混乱で現地に取り残された子供たちだ。当時の両国の法律は、父親の国籍を子供が受け継ぐ父系優先血統主義を採用していたことから、2世は間違いなくフィリピン生まれの「日本人」である。

 しかし、戦中にフィリピン人ゲリラから逃げる中、出産証明書など父親が日本人であることを証明する資料を紛失したり、戦後、反日感情による差別を恐れ自ら焼き捨てたりしたため、自分が日本人であることを証明できずにいる。

 “無国籍状態”となっている2世には、自分の子や孫が日本で働けるといった海外生まれの日本人なら当然持てる権利もなく、貧困の中暮らしている人も多い。国策で中国東北部に渡った満蒙開拓団らの子供の「中国残留孤児」と比べると、日本政府の関心は薄く、支援も乏しい。フィリピン残留2世はまさに「忘れられた日本人」といえる。

 日本財団では2006年から、フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)とともに、残留2世の救済事業を始めた。これまで事業の一環として、訪日した残留2世を日本の親族と引き合わせてきたが、今回のように日本からフィリピンの親族を訪ねるのは初めてのケースだ。

 難航する身元調査

 親族の引き合わせは簡単ではない。通常、フィリピンの日系人会から身元捜しの依頼を受けたPNLSCが調査を行って日本の親族を探し出した上で、フィリピンに住む親族に心当たりがないかを確認するアンケートを送付する。しかし、戸惑いなどから、この照会にさえ応じてもらえないことが多い。実際に親族同士の面会が実現するまでにはさらなる困難を伴う。今回のような対面が実現したのは、強さんの協力が大きかった。

 フィリピンの叔母のことは両親から聞いて知っていたという強さん。周囲の反対で断念はしたものの、十数年前には地名だけを頼りに現地に探しに行こうとしたこともあったという。沖縄の新聞を見てこの事業を知り、PNLSCに自ら問い合わせた。

 現地に行ってでも叔母に会いたいと思ったのはどうしてなのか。「そう聞かれても、自然な感情としか言えない」と、強さんは話す。「現地の平均寿命からして、まさか叔母が存命とは思ってもいなかった。どんな人だろうと不安はあったが、とにかく会ってみたい」。対面に迷いはなかった。

 強さんの祖父、宮里源一さんは大戦前に、出稼ぎでフィリピンに渡った。日本に家族を持っていたが、現地人と結婚し、コンチータさんを含む子供4人をもうけた後、終戦直前に亡くなった。

 「おばぁ(祖母)、そして父親らも、フィリピンに行ってから音沙汰がなかったおじぃ(祖父)を恨んでいたかもしれない。しかし、お線香くらいはあげたいと思っていたはず。代わりにそれを孫の自分たちでやることが親孝行にもなる」。強さんは、源一さんのお墓参りにも行きたいと考えていた。

 日本財団の国際協力グループの松岡直さんは「宮里家のように親族と会えるのはとても幸運なケース」と話す。「存命の残留2世は現在約200人いるが、限られた資料での身元調査は難航している。今年8月に帰国する2世は、8人中7人が身元の詳細情報を求めている。より多くの人にこの問題に関心を持ってもらい、手掛かりをつかみたい」と訴えている。(日本財団 広報グループ 宇田川貴康/SANKEI EXPRESS

ランキング