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社会
震災・原発事故 福島を記憶する(下) 帰りたいけど…諦めと不安大きく
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福島県郡山市の仮設住宅で話をしてくれた猪狩重信さん(89)=2014(平成26)年6月28日(横浜国立大学_学生記者、細川高頌撮影)
福島県郡山市内にある仮設住宅で取材をすることができた十数人の話をどのように記事にしようかと、ベンチに腰掛け、メモ帳を見返していた。すると、近くでたばこを吸いながら休憩していた宍倉(ししくら)秀和さん(38)に話しかけられた。宍倉さんは仮設住宅の中にある富岡町社会福祉協議会の職員をしている。自身も避難者で、両親と妻、2人の子供は栃木県におり、郡山市に単身赴任中だという。
「このまま、あと数十年間単身赴任なのかもしれないなぁ」。たばこの煙を吐き出し、遠くをみながらつぶやいた。宍倉さんが単身赴任を始めたのは今年から。それまでは栃木県から郡山市まで片道2時間弱の道のりを毎日、車で通っていた。2年間の走行距離は15万キロにも及ぶ。
「子供の学校のこともあるし、栃木の方で新しい就職先を探そうかとも思った。でもやっぱり富岡の街と、あったかい人たちから離れられないだよなー」。富岡で暮らしていたころの勤め先は、原発事故後の避難で職員がバラバラになり、解散した。
栃木で暮らし始めてすぐの頃、母親が脳梗塞で倒れた。病院に連れていこうとしたが、慣れない土地でどこに病院があるのか分からなかった。「もう少し対応が早かったら、症状は軽かったかもしれないんだ。今はすまねぇって気持ちでいっぱいだ」。母親には、半身麻痺の後遺症が出た。
自身もだんだんと気分が落ち込むようになった。「今はそんなふうに見えないでしょ? 俺もまさかそんな状態になるなんて思ってもみなかったもん」
仮設住宅に避難している富岡町の人たちに丁寧に挨拶をしながら働いている現在の姿からは想像もつかない苦難の3年余りだったのだ。
「そりゃあ富岡に帰りたいよ。でも無理だもん。しようがないよ」。仮設住宅での取材で、この言葉を何回聞いただろうか。
「ここの仮設で暮らしている人は、震災から時間がたつにつれてだんだん諦めてしまって、口から出る言葉と本当の気持ちにズレがある」。たばこの火を消しながら宍倉さんは言った。
「帰宅困難区域」に指定されている富岡町の小良ケ浜(おらがはま)地区で暮らしていた猪狩重信さん(89)は「『国破れて山河あり』なんて言葉があるけど、俺たちには山河すら残ってねぇ」と、つぶやいた。
富岡町の故郷は、一時帰宅するたびに変わり果てた姿になっていった。猪狩さんにとって故郷は「いつか戻る場所」ではなく「振り返る場所」になりつつあるという。
「最初はここで死にたくねぇなと思った。でも3年もたてば郡山の土地に愛着も湧いてくる。もう郡山で葬式場も予約してんだ」
原発事故の避難者たちは、自分たちの生活がこれからどうなるのか道筋がたてられないから、「諦め」が積み重なっていってしまう。
宍倉さんは「先が分からないからこそ、道筋がたてられないからこそ、富岡の人たちには笑顔でいてほしい。今元気でいなくちゃ、戻れるもんも戻れなくなる」と最後に話してくれた。
早く生活の道筋が見えるようにしなければ、避難している人たちの「諦め」と不安はどんどん大きくなっていく。そう強く感じた。(今週のリポーター:横浜国立大学 学生記者 細川高頌、写真も/SANKEI EXPRESS)
■風化を防ぎたい
原発事故は3年前の出来事ではなく、今も事故は続いている。現地に行って、そのことを実感した。
現地ではたくさんの人が話を聞かせてくれた。「あそこのおじいちゃんは頑固だから話なんかしてくれないよ。今までの取材は全部断っている」と言われていたのに、「若い人が来るのはいいことだ」と話をしてくれたこともあった。
避難住民の状況は、時間の経過とともに複雑化しているように感じた。取材では「風化させないでほしい」という声を何度ももらった。今回のルポルタージュで、その期待に少しでも応えることができればと思っている。(横浜国立大学 学生記者 細川高頌)