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善業を積む人生そのものが「終活」 鈴木日宣
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暑さをますますつのらせる蝉(せみ)しぐれ。しかし早朝や日没のころにはヒグラシの涼しげな音が境内を包み込みほっとするひとときを演出してくれます。自然界は非常に厳しいけれど、このように優しい一面もあるもの。人も同じで厳しい面や優しい面、いろいろな面があります。その人の一面だけを見て誤った判断をしないようにしたいものです。
「人はなぜか『いつかは死ぬかもしれないけれど今は死なない』と思うものなんだ。だからいざ死ぬときになって慌ててしまうのだよ」
雑談中に師匠からそのような話が出たことがあります。生ある限り必ず訪れる死。いまや婚活や就活と同じように人生の最後の日を迎えるためにと「終活」を行う人も少なくありません。私は、さらに死後を知ることでもっとしっかりした心構えができるものと思います。
「死」とは病気や事故などで肉体が機能しなくなり、やむを得ず魂が肉体から離れることです。自分の亡骸(なきがら)を見て「私は死んだのだ」と納得したとき、魂は死出の旅へと向かいますが、中にはあまりにも突然の事故などで自分が死んだことすら気づかず地縛霊(じばくれい、何度も同じ場所で事故が起きるような所にいます)や浮遊霊になってしまう場合がございます。僧侶が葬儀の時に引導を渡すのは死んだことを言い聞かせるためなのです。仏式では七日ごとに忌日があります。
初七日-秦広王(しんこうおう)→三途(さんず)の河を渡り次の王のもとへ
二七日-初江王(しょこうおう)
三七日-宋帝王(そうていおう)
四七日-五官王(ごかんおう)
五七日-閻魔王(えんまおう)
六七日-変成王(へんじょうおう)
七七日-泰山王(たいせんおう、ここで次に生まれるべき所がほとんど決まるといわれている)
百箇日-平等王(びょうどうおう)
一周忌-都市王(としおう)
三回忌-五道転輪王(ごどうてんりんおう)
こうした10人の王による裁判があり、生前の罪業の軽重によって次に生まれる場所が決められる、それぞれとても大切な日です。三回忌までに追善を受けられない者は地獄に堕(お)とされ、非常に長い間大きな苦しみを受けます。(人間界の500年が天界の1日。天界の500年が地獄界の1日といわれています)
死後の世界は受け身。生前の業によって苦しみを受けても自分ではどうすることもできず、この世からの追善を待つしか方法がありません。忌日ごとに釈尊の最高の教えである法華経で追善を送ることにより精霊は天界まで行くことができ、また追善回向を行った人も善業を積むことができます。
「自分は地獄に堕ちるような悪いことはしていない」と思っていても実はとんでもない罪を犯している場合があります。この世の中で殺人は憎むべき重罪ですが、仏教では神仏、仏教を信じない「不信」の方が父母を殺すよりも罪が重いとされているのです。神仏の存在を信じ、親、社会、国、自然に対して報恩感謝していくことが善業を積むことになります。
人生そのものが「終活」です。善業をたくさん積んで死後、善処に行けるような「終活」に是非励んでいただきたいと思います。
≪トップが行くことこそ「誠意」の表れ≫
亡くなった方は受け身なので自分から意思表示ができませんが、私たちの心はちゃんと届きます。事あるごとに亡き方々に心を向けることはとても大切なことです。
まもなく終戦の日を迎えます。私にはルソン島で戦死した伯父がいます。農家の長男で兵役を免除されていましたが、戦争末期、戦局悪化により徴兵されました。訓練を受ける時間もほとんどなく外地に赴いた伯父のような人たちは他にもたくさんおられたことでしょう。
例えば企業において一人の社員がその会社を守るために命を落とされたとします。亡くなった社員の家族に課長、部長がお悔やみに行くよりも、トップである社長や会長が行くことが「誠意」の表れとなりましょう。国家にも同じことが言えます。国が徴兵し日本を護るために戦死された方々に対し総理大臣が靖国神社で「あなた方の死を決して無駄に致しません」と祈りを捧(ささ)げに行くことは大きな「誠意」の表れです。それを邪魔したり批判するなど許されざる行いです。もういい加減に御霊を静かに眠らせてあげてほしいのです。戦後69年という年月を経てもなお御霊は安らぐことができないではありませんか。終戦の日は天皇陛下をはじめ総理大臣そして全ての国民が感謝の心で祈りを捧げる静かな一日とする。それが英霊方の最もお喜びになることではないでしょうか。(尼僧 鈴木日宣/撮影:原圭介/SANKEI EXPRESS)
7年間社会人を経験したあと内田日正氏を師として26歳で出家。日蓮宗系の尼僧となる。現在は千葉県にある寺院に在住し、人間界と自然界の間に身をおきながら修行中。