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道路、鉄路 作り、選び、進む理由は 町田康
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道路、鉄路_作り、選び、進む理由は=神奈川県横浜市中区(町田康さん撮影)
私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人は先ほどからせつない気分でいる。なぜかと言うと、青木淳悟の『男一代之改革』を読んだからである。
『男一代之改革』には、「男一代之改革」「鎌倉へのカーブ」「二〇一一年三月-ある記録」の3編が収められているが。どれもせつなかった。例えば、「鎌倉へのカーブ」は30代前半かそれくらいの夫婦、の特に夫の方が道路や鉄道について考えたり、経巡(へめぐ)ったり、経巡ること考えたりする話で、というと、それのどこがせつないのか、と思うかも知れないが、これが極度にせつない。
どこがせつないのか、なぜせつないのか、というと、それは不思議なせつなさで、例えば、道路がそこに引かれてある、ということ、そしてそこを人が通行するというただごとが、この小説を読んでいると不思議にせつなく思えてくる。
道路というものは、読み狂人は道路を開鑿(かいさく)しようと思ったことは当たり前の話だがないのだけれども、その時点で誰かが合理的な理由で開通せしめたものだろう。ここに道があった方が物産を運びやすいとか、兵力を動かしやすいとか。
だけど、けれども、それはけっしてそうした能動的な理由ばかりではなく、受動的な合理性もあっただろうし、もっと言うと、その決定にいたるまでの過程は、昔の権力は権力者の生理や肉体に直結し、それには性も深く関係していただろうから、合理的なように見えて、その実、根本には理屈で説明のつかない感情の現れとしてあるのではないか、なんて思えてくる。
のは、もちろん、この本を読んだ/読んでいるからなのだけれども、そう思うとき、その道路や鉄路を通行するとき、私たちは自らその道や路線を選んでいく。そのとき、路線検索みたいに、最短時間とか最短距離とか最安とかで選んでいるように思うのだけれども、実はそもそもの道がそんなだからそうではなくて、もっと感情的な理由で選んでいる、というか、選んでいるのではなく、実はもう歴史的必然として、和田一族が最後あんなことになったように、実朝が最後あんなことになったように、いろんな人が最後あんなことになるように、ドラッグストアやら卸売団地やらが並ぶ田舎の、或いは、ホテルやらオフィスやらが並ぶ都心を、或いは川沿いの遊歩道を、もうそこしか往くところがない、というか、そこを往くしかない、という感じで歩いているのではないか、なんて思えてくる。
のは、当然、この本を読んだ/読んでいるからなのだけれども、そう思うとき、だから私たちは、人生の時間を過去から未来に向けて進んでいるように思うけれども、そうではなくて、私たちの人生は過去の時間を全部一緒くたにして平べったい地面にぶちまけたような道路、鉄路を追い詰められつつ、ジリジリ移動してる、そんなことではないか、みたいに思えてきて、つまり、鉄路や道路が人の心の動きとモロに同調してきて、それを、その様を、いる。いた。という操作等に凄みのある、克明な文章で書かれたこの小説を読んで読み狂人、極度にせつなくなっちゃったン。ゴシック体もせつなくて。
趣は違うけど、そのように心が痺れ、狂う感じは同じく、「男一代之改革」にもあって、読み狂人は、いまの小説はこうやなかったらアカン、と腹の底で思いました。
そして、いまからは、これからは駅、そうとりあえずは渋谷か品川駅に行ってこようと思う。そして、路線案内図を見上げようと思う。そうしたら、路線案内図の下に、よく見ないと気がつかない感じの書体で書いてあるはずだ。
「この路線図にある路線はすべて実在する路線です。フィクションではありません」って。
と本気で思うほど、この本はいかれている。いかしている。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も、写真も/SANKEI EXPRESS)