ニュースカテゴリ:EX CONTENTS
国際
米ハワイ「アリゾナ記念館」 生き証人が語る真珠湾のあの日
更新
上空から見た真珠湾。大戦の舞台となったことが想像できないほど美しく、澄んだ水面が印象的だった=2014年11月14日、米ハワイ州・オアフ島(鈴木健児撮影) 74年前の1941(昭和16)年12月8日未明(現地時間7日朝)、米ハワイ・オアフ島の北約320キロに展開する日本の連合艦隊から、爆撃機や戦闘機約200機が発艦した。目標は真珠湾の基地と米太平洋艦隊。
午前7時52分、真珠湾上空に到着した空襲部隊の淵田美津雄総指揮官から空母「赤城」に向けて「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)が打電された。55分、フォード島の米海軍の6番格納庫への爆撃を皮切りに真珠湾攻撃が始まった。
第1波、第2波合わせて、約350機が縦横無尽に真珠湾上空を飛び回り、艦船や航空機数百機、格納庫、滑走路などを破壊、2時間に及ぶ「真珠湾攻撃」が終了、対米戦争に突入した。
フォード島の米海軍54番格納庫で飛行艇カタリナの乗組員として勤務していた20歳だったディック・ジラコさん(93)は、真珠湾攻撃の当日のことを鮮明に記憶している。「あの日は澄み切った青空の中、無数の飛行機が空を覆うように飛んできた。急旋回した翼の下に日の丸が見えたときに、パニックになった。飛行帽やゴーグルがはっきりと見えるほど近くを飛んでいった。パイロットと目があったが人は狙わなかった。日本軍は卓越した飛行技術と完璧な作戦で、滑走路や艦船、航空機を徹底して攻撃して去った」。この攻撃による死者は、米兵ら2000人超とされる。
ジラコさんは当時のまま残る格納庫などを利用した太平洋航空博物館の親善大使として、戦争体験を語り継ぐボランティアに励む。「90歳を過ぎた今も、当時の体験を正しく伝え、さまざまな人と交流できることが生きがいだ」と笑顔で話した。愛車は日本車で、自ら運転し格納庫に通っている。ナンバーは「パールハーバー・サバイバー(真珠湾の生存者)」だ。
≪開戦の象徴 記憶を消さない≫
日米開戦の象徴とされるのが、あの攻撃で沈没した戦艦アリゾナ。攻撃第1波の午前8時過ぎに2発被弾し、大破して炎上。米兵1000人以上が犠牲となった。アリゾナは現在も攻撃を受けたその場所に沈んだままだ。全長185メートルの船体をまたぐように1962年に記念館が建てられ、天気が良い日には水面にその船影が浮かび上がる。白亜の追悼施設「アリゾナ記念館」には対岸から海軍のボートで訪れることができる。メーンマストに星条旗が掲げられた館内では、犠牲者名を彫った石版や、海中の残骸を見ることができる。となりには降伏文書の調印式を行った戦艦ミズーリの姿も。
当時8歳だった日系2世のエレーン・フナコシさん(81)は、自宅の庭で日本軍機を目撃した。「若い美男子のパイロットが手を振ったのを覚えています。開戦後、日系人は随分差別を受けました」と心境は複雑だ。
真珠湾にあるヒッカム基地のデビッド・ホンチュル大佐(51)は「司令部の建物には日本軍の弾痕もある。毎年12月7日には攻撃で破れた星条旗を掲げ、若者に何があったか伝えている。戦時中のできごとの是非ではなく、事実の記憶を消さないことが大切だ」と強調した。
ヘリをチャーターし、真珠湾攻撃と同時刻に上空を飛んだ。まぶしい日差しと澄んだ水面が印象的だった。あの日、日本軍のパイロットたちが見た風景はこれだったのか。身震いを覚えた。(写真・文:写真報道局 鈴木健児/SANKEI EXPRESS)