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「BLUE TOKYO」青森公演(下) 新たな舞台芸術の可能性

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「BLUE TOKYO」青森公演(下) 新たな舞台芸術の可能性

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舞台公演「BLUE」は、青森大学新体操部と青森山田高校男子新体操部のメンバーも活躍。通常なら個人競技で使用されるスティックを手にして力強い群舞を披露した=2015年1月24日、青森県青森市堤町の「リンクステーションホール青森」(田中幸美撮影)  青森大学新体操部OBで結成されたプロパフォーマンスユニット「BLUE TOKYO(BT・ブルートーキョー)」が先月下旬、母校や系列の青森山田高校の新体操部員らと青森市で行った舞台公演「BLUE」。新体操とダンスの融合にとどまらず、新たな舞台芸術の可能性を見せてくれた。

 そもそも新体操とダンスはどのようにして出合ったのか。

 BTの創始者の一人で、青森山田高校男子新体操部の監督を務める荒川栄さん(42)は2008年、生徒を引き連れてあるダンスイベントに参加した。そこで出合ったのが、今回の舞台「BLUE」に特別ゲストとして出演したダンスカンパニー「DAZZLE」だ。DAZZLEは、独自のダークな世界観を持ち、人間国宝で歌舞伎役者の坂東玉三郎(64)をして「理由なく感動した」と言わせた異色のダンスカンパニー。

 その踊りを見た荒川さんは、同調性や同時性を追求する姿に新体操と同じにおいを感じたという。そして「新体操の選手が踊れるようになったら、これは新しいコンテンツになるぞ」と確信した。「DAZZLEと一緒にやりたい」。2年後にはコラボレーションが実現した。

 当時は学生時代にどんなに新体操の道を究めてもそれを生かすその先の「セカンドステージ」はなかった。個人でオーディションを受けるなどしてパフォーマーになる道はあったが。指導者であると同時に教育者である荒川さんは、系列の中学から大学まで10年間手塩にかけた生徒が新体操を続けたくても不安定な将来しか描けない境遇をなんとか改善したいと思っていたのだ。

 そうした中、誕生したのが「BLUE TOKYO」だ。2010年のことだ。

 ≪語り継がれるBLUE≫

 プロパフォーマンスユニット「BLUE TOKYO」が中心となって織りなした舞台作品「BLUE」。青森の「青」に由来するが、実はもう一つ別の意味が込められている。

 青森大学新体操部には語り継がれるOBがいる。青森山田高校男子新体操部監督の荒川栄さんの教え子で、青森大学では新体操部の1期生となった大坪政幸さんだ。

 そんなに強い選手ではなかった。完璧な演技をこなしていたのに最後の最後でリングをフロア外に大きく飛ばして減点されるなど、どちらかというと失敗してしまうタイプの選手だった。だから2位どまり。「またやっちゃいました」。屈託のない明るい性格だった。サービス精神が旺盛で、いつも仲間を笑わせる人気者だった。

 「お前みたいなヤツは競技ではなくて、プロとしてパフォーマンスしたり人を笑わせたりするのが向いているんじゃないか」。ほどなく、荒川さんの知り合いの社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」でパフォーマンスを披露するようになった。新体操のプロ第1号だ。新体操のプロを誕生させるのが夢だった荒川さんにとって期待の星だった。

 そんな彼を病魔が襲った。舞台に立てなくなり、故郷の岩手に帰って療養しながら、それでも舞台にかかわりたいと照明の仕事を始めた。そのころの口癖が、「BLUE」公演のサブタイトルにもなっている「新体操で舞台を創りたい」。その後病状が悪化し2009年夏、帰らぬ人となった。わずか27歳の若さだった。

 その大坪さんが生前、スティックを使った個人競技で好んで使っていた楽曲が「BLUE」だ。「D.F.O.」という女性インストルメンタル・ユニットの曲。「あいつの演技といえば『BLUE』だった」と懐かしそうに振り返る。

 荒川さんは公演を立ち上げるときに「政幸の夢をかなえよう」と、公演名を決めた。過去2回の公演は、大坪さんの追悼公演のようだった。しかし、「いつまでも政幸を引っ張ってやるものじゃない。舞台が本当に成長するために次のステップに行くべきじゃないか」と考え、かねて交流のあったDAZZLEの主宰者、長谷川達也さんに演出と脚本を依頼したという。

 3回目にして進化を遂げたBLUE。しかし、大坪さんの精神は今もそこに受け継がれている。(田中幸美(さちみ)、写真も/SANKEI EXPRESS

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