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「侍魂」感じた黒田投手の広島復帰 大屋博行
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ヤンキースから広島に復帰し、ヤクルト戦に先発した黒田博樹投手=2015年3月29日、広島県広島市南区・マツダスタジアム(塩浦孝明撮影)
「誠意」とは何か-。スカウトの世界に長く身を置き、忘れがちだったことの本当の意味を思い出させてくれた。米大リーグのヤンキースから日本のプロ野球・広島に復帰した黒田博樹投手。メジャーからの20億円超とされるオファーを断り、推定年俸4億円で古巣を選んだ「男気」で話題をさらった。何より、メジャーリーグでバリバリのローテーション投手が日本に戻ってくるのは初めてのケースだ。
スカウトという職業柄、日米の表も裏も見てきた。アメリカでは、選手が球団との交渉を代理人に一任することが多い。代理人は年俸の一部を報酬として選手から受け取る。このため、少しでも報酬額を増やしたい代理人の意向に、移籍先も左右されがちになる。いきおい、エンジョイしてプレーできる環境よりも、1セントでも高い契約額を提示するチームを選ぶことになる。そんな実態を見て、自分自身も“ビジネスライク”に徹しなければと思ってきたが、黒田投手の決断には、人間味を感じさせられた。
黒田投手のプレーを初めて見たのは、プロ3年目でインターコンチネンタル杯に出場したときだった。経歴を調べると、上宮高では控え投手で、専大でも当初はそれほど目立った選手ではなかった。だが、そのピッチングに「こんなすごい投手がいたのか」と目を丸くしたのを覚えている。
いわゆるパワーピッチャーで、威力のある直球に加え、カットボールやスライダーも切れ味があった。フォークも武器に持ち、カープのエースになるのに時間はかからなかった。5年目の2001年に12勝を挙げると、05年は15勝で最多勝を獲得。06年には防御率1.85という好成績で最優秀防御率のタイトルを手にした。この年のオフには、高額年俸を用意する日本の他球団への移籍も噂されたが、彼はフリーエージェント(FA)の権利を行使せずにチーム残留を宣言した。
このときの決断が、カープファンとの絆を強固にしたといわれている。
海を渡ったのは08年。注目の投手だったが、当時の球団側の補強リストとは合致せず、今にして思えば残念でならない。
ドジャース、ヤンキースで先発ローテーションの一角を任され、毎年コンスタントに200イニング前後を投げ、ここ5年は連続で2桁勝利を挙げた。野茂(のも)英雄氏や佐々木主浩(かづひろ)氏をはじめ、メジャーで成功した日本人投手は多いが、彼らと並ぶトップクラスの活躍ぶりといっていい。
成功の秘訣は、研究熱心なことだろう。渡米後、ピッチングスタイルをアメリカ向けに調整した。日本では圧倒的だった直球も、パワーヒッターがひしめくアメリカでは簡単には通用しないからだ。ツーシームをはじめとした微妙に球筋が動くボールを多用し、バットの芯から少し外して詰まらせて打ち取るスタイルを確立した。
ドジャースは西海岸屈指の人気球団で、ヤンキースは言わずと知れた熱狂的なファンで有名なチーム。少しでもまずいプレーがあればヤジやバッシングを浴びる。そういった環境で首脳陣やファンから信頼されてきたのだから、タフな精神力も兼ね備えている。
古巣への恩返しの気持ちから広島に復帰した今季。広島の強力打線も念頭に置くと、16勝を上回るくらいの勝ち星は計算できそうだ。
根拠はいくつかある。第1には、登板間隔が中4日のアメリカと異なり、日本では中6日が基本線で、より疲労が取れ、100%に近いパフォーマンスを発揮できることだ。加えて、先発投手も全試合でチームに帯同するメジャーと違い、日本では本拠地に残ったり、先乗りしたりして調整が可能となり、より万全に近い状態でマウンドに上がれる。
黒田投手は厳格な両親に育てられたと聞く。だからなのだろうか、今回の復帰には、どこか「侍魂」を感じさせられた。海の向こうで「メード・イン・ジャパン」の投手は世界に通用することを証明しただけでなく、その力がさび付く前に日本に戻ってきた。今シーズンは、日本球界の選手にとってもファンにとっても、メジャーリーグの実力を身近に実感できる絶好の機会になるだろう。(アトランタ・ブレーブスの国際スカウト駐日担当 大屋博行/SANKEI EXPRESS)