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武蔵元乗組員ら フィリピンで洋上慰霊祭 爆弾、魚雷… 渦巻き沈んだ最期
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フィリピン・シブヤン海で行われた戦艦「武蔵」の洋上慰霊祭で、「海ゆかば」を歌う元乗組員ら。前列左は早川孝二さん=2015年4月26日(共同) フィリピン中部シブヤン海に沈んだ旧日本海軍の戦艦「武蔵」とみられる船体が発見され、元乗組員3人と遺族ら計約40人が26日、船でシブヤン海に向かい、洋上慰霊祭を営んだ。元乗組員は戦友と「再会」し、70年余り前に思いをはせた。
武蔵は太平洋戦争中の1944年10月、フィリピンのレイテ沖海戦で沈没。乗員約2400人のうち1000人余りが戦死したとされる。船体は米国の資産家らの調査チームが、水深1000メートルの海底で発見し、今年3月に映像を公開。専門家は武蔵の可能性が高いと指摘した。
遺族らは、亡くなった家族が好きだった菓子や酒を海に流し、冥福を祈った。
参列した元乗組員は山形県鶴岡市の大場貢さん(90)と、埼玉県鳩山町の種村二良さん(90)、千葉県南房総市の早川孝二さん(87)。
大場さんは、戦死した先輩が好きだったたばこを持参。火を付けて海に流し「恩返しができた」と感無量の様子だった。
軍楽隊員だった種村さんは、持ってきたトランペットで軍歌「国の鎮め」を追悼演奏。洋上に向かい「待たせたね」と語り掛けた。
沈没時の武蔵に乗り、生還した早川さんは、当時よく歌った「海ゆかば」を皆で合唱しながらむせび泣き「つい思いが込み上げてきてしまった」と目をはらした。
父親を亡くした青森県むつ市の一戸ツヤさん(74)は「思い続けていたことがようやくかなった。私の『戦争』が終わった気がする」と話した。
慰霊祭は元乗組員らでつくる「戦艦武蔵会」(事務局・さいたま市)が主催。一行は、パナイ島のカティクラン港から小型のチャーター船に乗り、約4時間かけてシブヤン海に到着した。船体が見つかった海域を目指したが、予想以上に時間がかかり、体調を崩す参加者もおり、途中の海上で慰霊祭が行われた。(共同/SANKEI EXPRESS)
≪爆弾、魚雷… 渦巻き沈んだ最期≫
16歳で戦艦武蔵に乗り、シブヤン海で沈没する瞬間まで運命を共にした千葉県南房総市の早川孝二さん。70年余りを経て、その海に戻ってきた早川さんのまぶたには、武蔵の最期の瞬間がまざまざと浮かんだ。
1944年夏、早川さんは「気象兵」として武蔵に乗艦した。暗号電報を基に天気図を作成し、雲や潮流などの情報を見て艦長らに報告する役目だった。
「気象班」にいたのは北海道、栃木、静岡の出身者ら。「海軍なのに意外と内陸の出身者が多かった」と振り返る。
早川さんの証言では、米軍機は、武蔵が沈没するまでに複数回、魚雷や爆弾の波状攻撃を仕掛けてきた。それでも当初は「不沈戦艦だから怖いという気持ちはなかった」。
早川さんは副砲近くにある艦内の気象室にいた。「最初は速度もあり、見張りもいたので魚雷をかわせた。主砲も撃っていた」。主砲の発射と魚雷の命中では揺れ方が違い、同僚と回数を数えたりしていたという。
攻撃の回数が増えるにつれ、左に傾いて艦首が漬かり始め、艦尾が持ち上がった状態に。「爆弾や魚雷がすごく当たるようになり(米軍機は)もうやりたい放題」
最後の爆撃で、気象室でも2人が即死し、早川さんも負傷した。ハッチをこじ開けると、10人ほどの遺体が前に積み重なっていた。
「不沈戦艦なんて嘘だなと思った。上甲板に大量の水が来ているんだから」
避難してもよいという「退艦命令」が出て、斜面になった艦体を滑り降り「大きな駅で乗り換えるときの階段みたいに、人に押されて海に入っていった」。艦に付着したカキの殻で背中や下半身をすりむき、左手も何かに当たり、感覚がなくなるほどのけがを負った。
「俺、泳げないんだよ」
親しかった同僚が後ろから小声でささやいてきた。どうしていいか分からず「これを持って」と木の切れ端を手渡した早川さん。一緒に海に入ったが、同僚の姿を見たのは、そのときが最後だった。
早川さんは、艦内で使っていた柔道のマットなどにつかまり、夜の海を数時間浮遊した後、味方の駆逐艦に救助された。
「武蔵は渦を巻いて沈んでいき、何もかも持っていった」。早川さんの右手には今も、爆撃の時に突き刺さった鉄の破片が埋まったままだ。(共同/SANKEI EXPRESS)