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両陛下、8日からパラオご訪問 慰霊碑40年 日系が引き継ぐ「墓守」
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天皇、皇后両陛下の戦没者慰霊ご訪問を目前に、先の大戦の激戦地、ペリリュー島の日本軍の慰霊碑を訪れた遺族の村井正巳さん(左)、生還者の元海軍兵の土田喜代一さん(左から2人目)ら=2015年4月5日、パラオ共和国ペリリュー島(今村義丈撮影) 天皇、皇后両陛下は8、9日、戦後70年での戦没者慰霊のため、激戦地だったパラオ共和国を訪問される。海外への「慰霊の旅」は、戦後60年の米自治領サイパン島に続き2度目。パラオご訪問は移動手段の問題などで一度断念しており、80歳を超えた両陛下は厳しい条件を受け入れつつ10年越しの宿願をかなえられる。
5日には激戦地のペリリュー島から生還した元日本兵や遺族らが到着。両陛下が宿泊される海上保安庁の巡視船「あきつしま」もすでに停泊地に着いた。
パラオは第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、先の大戦ではペリリュー島で米軍約5万人を迎え撃った日本軍約1万人が徹底抗戦の末にほぼ全滅。生還者はわずかで「忘れられた島」ともいわれてきた。
天皇陛下の強いご意向を受け、戦後70年を前にした昨年、パラオご訪問が再浮上。民間機と海保のヘリコプターの活用で移動の問題をクリアし、巡視船に宿泊する異例の選択も受け入れられた。
側近は「慰霊のお気持ちの前では多少の悪条件は支障にならない。準備は整った」と話している。
≪慰霊碑40年 日系が引き継ぐ「墓守」≫
5日、11年ぶりにパラオ共和国ペリリュー島に入った村井正巳さん(79)=盛岡市=は、ペリリュー島守備隊の英霊がまつられた慰霊碑「みたま」などが建つ北部の共同墓苑で静かに手を合わせた。
5年前にがんの手術を受けたが、両陛下のご慰問を知って駆けつけた。「おやじも涙を流すでしょう」。補給を絶たれつつも奮戦した陸軍少将の父、権治郎さんを思い、碑に故郷の水をかけ、好物の南部せんべいを供えた。
久しぶりに見た慰霊碑に「きれいなままですね」と、村井さんがつぶやく。1972年に建立されてからすでに40年以上がたつが、周りの雑草はきれいに刈り取られ、碑は輝きを保っている。
思い出すのは、過去3度の訪問で温かく迎えてくれた島の元酋長(しゅうちょう)、トヨミ・オキヤマさんと、夫のシゲオ・テオンさんだ。なかなか訪島できない遺族らにトヨミさんらは「私たちはみなさんの家族。死ぬまでしっかりお墓を守ります」と語っていたという。
シゲオさんとトヨミさんを、日本側関係者は親しみを込め「パラオの父、母」と呼んだ。3000キロも離れた異郷で眠る大切な人を思う戦友や遺族らに代わり、「墓守」として慰霊碑の維持・管理を担ってきた。
トヨミさんは父が八丈島の船大工、母がペリリュー島の酋長の娘という日系2世。シゲオさんは両親が仙台市からパラオに移住した後に生まれた日本人だ。それぞれ「沖山豊美」「庄子茂夫」の日本名を持っているが、慰霊碑を守ってきたのはペリリューの人間としてだったという。
慰霊碑の建立は現地の人々の協力がなければ実現しなかった。戦友や遺族らが当時の酋長から共同墓苑として土地を借り受け、建てられたのが「みたま」。今では取り囲むように、遺族会や戦友・遺族個人など50基以上の碑が立ち並ぶ。トヨミさんが2001年、シゲオさんが08年に死去した後も、息子で現酋長のイサオ・シゲオさん(76)が思いを引き継ぎ、集落の持ち回りで多くの島民が清掃などに関わる。
「トヨミさん、シゲオさん夫妻がいなければ遺骨収集も進まなかった」。ペリリュー島守備隊の主力だった歩兵第二連隊の遺族・戦友会「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」の事務局長、影山幸雄さん(70)はこう話す。
パラオは自然、文化財保護のルールが厳格で、遺骨でも原則として発掘禁止。夫妻とイサオさんは、遺族らが調査活動をしやすいよう政府側と何度も交渉し、「自ら険しい山に入り、ご遺骨を収集してくれることもあった」(影山さん)。
なぜ、これほど親切なのか。先の大戦で米軍がペリリュー島に上陸する前、日本軍が現地の人々を別の島に疎開させ、戦闘での死者が出なかったことに感謝する現地の人々は多い。
ただ、影山さんは「補給も絶たれた疎開先の島では餓死者が出た」と指摘。「複雑な感情を持つ人もいるはずだが、常に温かく迎えてくれる」と墓守たちの思いの深さに感謝する。夫妻が死去した際には「遺骨収集の支えを失う」と危惧する声もあったが、イサオさんは「一人残らず返したい」と両親と同じ言葉を語り、遺族らを安心させたという。
両陛下は9日、島南端に日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」で供花される。「両陛下のお気持ちは国籍を問わず、すべての戦没者に向けられている」(側近)。イサオさんも碑の前で両陛下を待ち受け、歓迎する。