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東ィ~千代の富士~、西ィ~北の湖~ 番付こそは日本の社会と文化の基本表示法である 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
相撲は見せるための武芸だった。『古事記』には出雲のタケミナカタが諏訪のタケミカヅチを投げ飛ばしたという記事があり、『日本書紀』には野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)を「すまい」で破って「天下之力士」と褒められたという記事がある。力士はチカラビトと読む。
飛鳥時代には健児(こんでい)が相撲をとり、奈良時代には「抜出司」が選出されて相撲を仕切ったとか、突く・殴る・蹴るの三手の禁じ手さえ決めたという文書がのこっている。平安時代にはそれらが相撲節会(すまひのせちえ)になり、召合(めしあわせ・現在の取組)が十数番にわたって組まれた。しかし、上覧相撲が職能としての大相撲になったのは江戸の享保や宝暦のことだ。ここから興行のしくみが一挙に確立し、取組・番付・行司制度・部屋制度が確立した。
江戸の社会は「番付」の社会だ。遊女も和菓子も神仏も、温泉も職人も評判美人も猫も、なんでも番付になった。三味線にも芸者遊びも、朝顔や金魚や土産品も番付になった。浮世絵師たちはそんな番付にもとづいて美人を並べ、力士を並べ、猫を並べた。詳しいことは石川英輔の『大江戸番付事情』(講談社文庫)を読まれるといい。石川さんは江戸のことなら万事がおハコで、江戸の長屋事情にもエネルギー事情にもリサイクル事情にも詳しい。
番付がおもしろいところは、たんなるベスト100でもランキング表でもないところだ。なにしろ東西に分かれて組み立ててあるところが、一義的なリニアな印象を突破している。つまり「一対ランク」なのである。これがあるため、いまでも酒豪番付をつくりたいときに、「いずれアヤメかカキツバタ」と悩ましいところを、どっこいどっこいの酒豪を東の横綱と西の横綱に振り、東の大関と西の大関をどっちつかずにもっていき、さらにはたくみに小結を配当できる。
ぼくはこうした番付趣向が、もともとは「歌合」(うたあわせ)から始まっていると見ている。日本は最初から位置やランクや重要度を線形にするのではなく、まずアワセ、そしてキソイをおこして、そのうえでソロイにもっていったのだ。ぼくが長らく日本の社会文化の本質には「アワセ・キソイ・ソロエ」および「カサネ」があったと言ってきたのは、そこなのである。
相撲の番付には真ん中に大きく「蒙御免」とある。これは「ごめんをこうむりまして」と読んで、幕府の興行許可をもらっていることを示した名残りだ。また東が西よりも格上になったのは、明治23年に西ノ海が張出大関になったことに不満を訴えたのをなだめるために、番付に初めて「横綱」の文字を入れ(それまでは大関が最高位だった)、東に張出してからのことである。ちなみに呼出(よびだし)が扇を広げて「東ィ~ハクホウウ~白鵬~」というふうに、東から呼び出すのは、お天道さまが東から昇るのに従ったからで、地位の順番ではない。
相撲番付には四股名(しこな)が大小ずらりと書いてある。隙間のない書き方は相撲文字というもので、歌舞伎の勘亭流や寄席文字とは異なる。江戸期の番付が版元の根岸家で刷られていたときに因んで「根岸流」とも言われる独特のものだ。相撲文字の書き手は昔から行司が担当した。現在は三役格行司の木村恵之助が一手に引き受けて書いている。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)