ニュースカテゴリ:EX CONTENTS
トレンド
世阿弥が気がついた却来(きゃくらい)の思想 「まねる」「うつす」「わたす」がすべてなのである 松岡正剛
更新
【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
初心、時分の花、物学(ものまね)、序破急、見所(けんじょ)、せぬ隙(ひま)、拾玉得花、シテ・ワキ・ツレ・ワキツレ・アイ、離見の見、態(わざ)、カマエ・ハコビ、目前心後、直面(ひためん)、未用心、大用(たいよう)、サシ・ヒラキ、崇(かさ)、是風・非風、長(たけ)、そして闌位(らんい)…。
ルネサンス中期の15世紀、東洋の片隅の観阿弥と世阿弥の親子が鬼舞ばかりの大和猿楽を見違えるほどのパフォーミング・アーツに仕上げた。能である。たちまち大流行したが、その心得一切を『花伝書』(風姿花伝)や『花鏡』にした著作力と思想力もまたすばらしい。これほどの指南書は世界でも稀有なのにノーテーション(謡曲楽譜)やコレオグラフ(舞踏譜)はまったく入らない。上に示したような「時分の花」「目前心後」「序破急」「サシ・ヒラキ」などといった独創的な芸能哲学用語だけで、ひたすらその極意を語り切ったのだ。
ところが『花伝書』も『花鏡』も一般にはまったく知られてこなかったのである。明治42年に安田善次郎所蔵の古書が吉田東伍に預けられたとき、やっと陽の目を見た。なぜ知られていなかったのか。秘伝であり口伝であったからだ。ぼくはこのことを知って、本当に伝承されるべきものはこのような「秘すれば花」でなければならないのかと、心底愕然とした。安易な普及だけでは伝承できないものがあったのだ。
能は「型」に入って「型」に出ることで成立する。これを習得するために稽古があった。稽古は「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ためのもので、そのためにするべき技法は「まねる」「うつす」「わたす」の3つのプロセスの繰り返しだった。そのために二曲三体を定め、一調二機三声を教え、位も九位を設けた。まことに凄い。
なかでもぼくが衝撃を受けたのは「却来」(きゃくらい)の思想だった。これは優れた風儀がつまらぬ「なりふり」を一挙に吸収していくことをいう。くだらなさ、つまらなさ、下品さを、対立もせず非難もせず、見捨てもせず、次々に抱握してしまうのである。これが却来だ。なるほど「能」とは、このようにして万象万障に「能(あた)う」ものだったのである。
序には「稽古は強かれ、博識は流れとあれ」とある。徹底して稽古をしていけば博識はおのずの流れでついてくるというのだ。このあと「問答」「奥義」「花修」「別紙口伝」と続く。最も大事なことは、花を感じられること、物学(ものまね)に徹すること、「崇」(かさ)と「長」(たけ)をおぼえて幽玄に向かうこと、そして「おもしろき」と「めづらしき」を同時に習得することだ。ともかく文章がすばらしい。ぼくは3~5年に一度ずつ再読してきた。
世阿弥が父と別れて40年後、子の元雅のために記したのが『花鏡』(かきょう)である。もと『花習』(かしゅう)と言った。有名な「初心忘れるべからず」「離見の見」「一調二機三声」などの重要な学習コンセプトは『花鏡』で語られる。そのほか「前々の非を知るを後々の是とす」「せぬならでは手立なし」「初心を忘れずして初心を重代すべし」など。世阿弥には『至花道』『花習内抜書』『曲付次第』『音曲口伝』『拾玉得花』『習道書』もある。
こういう本から世阿弥に入るとわかりやすいのではないかと思う。編者の松岡心平は『宴の身体』でバサラから世阿弥に及ぶ変移を綴り、『能:中世からの響き』で能の心髄を時代的社会技法から読み解いた。信頼できる研究者だ。本書は大岡信・丸谷才一・渡辺保・多田富雄・土屋恵一郎・水原紫苑などが縦横に世阿弥と能のおもしろみを語っていて飽きない。心平さんの突っ込みと受けがいいからだ。ちなみにぼくもインタヴューを受けている。
世阿弥や能についての論評はたいへん多いが、あまり入門書に頼らないほうがいい。それよりは何度も能楽堂に足を運ぶべきだ。むろんおもしろい本もある。堂本正樹・観世寿夫・渡辺守章などは読みごたえがあった。本書は最近の著作で、井筒俊彦の『意識と本質』に触発された著者が、世阿弥がのめりこみたかった「際」に分け入った。どちらかというと禅の極意から能の醍醐味を掴もうとしているようで、菩薩道としての能が浮上していた。(編集工学研究所所長、イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)