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東京駅はぼくが好きな洋書のようです 辰野金吾の矜持と根性と洒落が建っている 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
100年ぶりに復元された東京駅を見て、これまで見えていなかった細部のあれこれに堪能した。ぼくが好きな洋書に似ているのだ。辰野金吾がこの洋書建築に散りばめたメッセージも読めた。その一方、あれ、ここには何かが欠けているぞとも感じた。時代の重みが失われていると言ったらそれまでだが、列強グローバリズムと明治的世界観をまたぐ辰野の根性のようなものが伝わってこなかったのだ。復元のせいだろうか。
明治10年、ロンドンで建築技術を修めたジョサイア・コンドルが、工部大学校(のちの東京大学工学部)のお雇い教授として来日した。まだ25歳だった。鹿鳴館、ニコライ堂、三菱館、岩崎邸、三井倶楽部などを設計するとともに、4人のピカピカの弟子を育てた。片山東熊、辰野金吾、曾彌達蔵、左立七次郎だ。この4人から日本の近代建築はすべて出所した。
コンドルは河鍋暁斎に日本画を習い、華道についての初めての英語本を著し、日本舞踊の前波くめを娶ったほどの日本贔屓だったのだが、一方では4人の弟子を厳しく、また奔放自在に育て上げた。ぼくはそういうコンドルがめっぽう大好きで、片山や辰野や左立らの建築意匠にもだんだん深入りするようになった。かれらはそれぞれ強烈な「意匠という個性」を発揮した。とくに東熊と辰野は対照的だった。
東熊は赤坂離宮(迎賓館)に代表される東西和合のネオバロックである。対する辰野は、堂々たる石段積みの日本銀行本店に代表される交響曲的構造感覚と、東京駅に象徴される赤レンガ白線仕立ての壮麗なドレスのような感覚とを披露した。これはコンドルと、その師のバージェスから受けたものを、辰野が二つながら受容したせいだった。
そういう辰野式建築を「相撲の仕切りのようだ」と評した者がいた。またそれを揶揄して「辰野の建物は仕切ってばかりいて立ち上がってこない」と言う者もいた。ぼくは、その容易に立ち上がらない仕切りを見せ続けているところこそ、世界に向けて“日本的洋書”を読ませたいという辰野の根性をあらわしていると思っているのである。
ともかくも、今日われわれが朝な夕なに出入りする東京駅には、明治大正期の日本人の矜持が放つ覇気の全容が見えているとも言うべきだろう。それを実感するには一夜を東京ステーションホテルに泊まってみるのがいい。夜中に乃木大将や山県有朋の大望がぶらりとやってくる。
ぼくは明治期のお雇い外国人がけっこう好きだ。なかでもコンドルはもっと今日の日本人に知られたほうがいい。ニコライ堂や三井倶楽部などの建築作品に惚れてもらいたいとともに、日本画・生け花・日本舞踊をはじめ「日本」にどっぷり浸かった外国人として、ラフカディオ・ハーンとともに語られるべきだ。『いけばな』『日本衣裳史』の著書もある。花柳流の日舞家と結婚し、大正9年に麻布の自宅で67歳で亡くなった。
コンドルはウィリアム・バージェスの事務所で建築技法を習得し、日本美術が好きだった師の影響もあって来日すると、工部大学校で日本人建築家を一から育てることになった。授業はすべて英語で、『造家必携』を著した。その教えは片山東熊に赤坂離宮・奈良国立博物館・京都国立博物館を、辰野金吾に日本銀行本店・日本銀行大阪支店・奈良ホテル・日本生命九州支店・東京駅などを残させた。生涯、薔薇と日本人を愛した男だった。
辰野は工部大学校でコンドルから造家学を習ったあと、明治13年にイギリスに留学し、コンドルの師のウィリアム・バージェスの事務所に入るとともに、ロンドン大学でも学んだ。本書は辰野がバージェスの影響をそうとう受けたという分析をしている。その建築意匠は「辰野式」と言われ、とくに赤レンガに白い石を帯状にめぐらせるデザインは一世を風靡した。ぼくはそれを「煉瓦のドレスをまとわせた洋書様式」と感じてきた。
東秀紀には『鹿鳴館の肖像』(新人物往来社)というコンドルを主人公にした小説もある。本書は辰野についての評伝だが、さまざまなエピソードが見えて愉快。高橋是清に英語を学んだこと、相撲がめっぽう好きだったこと、東京駅の設計を任されたとき万歳をしたこと、いろいろだ。辰野は後進を育成する名人でもあった。伊東忠太・武田五一・野口孫市らが気を吐いた。小林秀雄を育てたフランス文学者の辰野隆が息子だ。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛(せいごう)/SANKEI EXPRESS)