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不思議の国のトムキンス氏に導かれて ジョージ・ガモフの愉快で正確な物理世界への招待状 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
時間と空間はつながっている、物質は場の曲率とともにある、量子の世界には自己同一性がない、宇宙は最初の3分間で誕生した、葉緑素と血液はほとんど同じ化学式でできている…。
若い頃のぼくを一変させた本はたくさんあるが、その多くはドストエフスキーやカフカのように「社会の矛盾」を問い、アンデルセンやJ・G・バラードのように「想像力の極み」に挑んだりしていた。ところが題名に惹かれて読んだジョージ・ガモフの『不思議の国のトムキンス』は様子がまったく違っていた。物理的な自然界に対する見方を一変させてくれたのだ。目の鱗がポロポロ落ちた。おまけにやたらに愉快だった。
しがない銀行員トムキンス氏が主人公である。ハリウッド映画がおもしろくないと思ってきたトムキンス氏は、もっと不思議なことが知りたくて某大学の物理の授業にもぐりこむ。けれども老教授が「この世界はな、湾曲しておって、かつ膨張しつつあるんじゃ」という第一声を発したとたん、何かがこんがらがって、気が付くと老教授とともに「朝も端もない宇宙の岩盤」の上にいたというふうに、奇妙奇天烈な話が始まるのである。
トムキンス氏は次々に、あやしい量子の世界や空間と時間が相対的になっているへんてこな世界に出くわして、そのたびに老教授の信じられないような説明を受ける。実はこの“おもちゃの宇宙”の出来事は白揚社の「ガモフ全集」第1巻目にあたっているプロローグで、続いて2『太陽の誕生と死』、4『原子の国のトムキンス』、7『宇宙の創造』、8『生命の国のトムキンス』、12『トムキンス最後の冒険』というふうに続くのだった。ぼくは夢中で全巻を求め、擬似トムキンスになって旅をした。
当時すでに感じていたことだが、これは凡百の通俗科学解説書ではない。ガモフはビッグバン理論の提唱者で、かつDNAの配列がコドン(3つ一組のトリプレット・コード)になっていることを予想した本格的な科学者だった。そのうえユーモアのセンスに富んでいた。だから、いくらトムキンス氏の夢想に付き合っても説明のレベルを落とさない。ぼくの科学的世界観はこのガモフによって(そして寺田寅彦とアンリ・ポアンカレとヘルマン・ワイル)によって鍛えられたのだ。
ガモフはシーンをつくるのがうまかった。ボールが拡がって進むビリヤードの部屋、疾走する自転車がだんだん縮んでいく呪いの町、数理の定数が狂ったレストラン…。これらは、ぼくが編集的世界観を形成するうえでの最も重要な光景をもたらしてくれる場面になった。ガモフは、科学の真髄とヴィジュアルイメージを結び付ける名人だったのだ。
とくに第6巻『1、2、3…無限大』は数学的発想に通暁できるように綴られていて、大きな刺激を受けた。数の問題、時空の連続性、エントロピーのはたらき、相対性理論の基礎、量子の関与、遺伝子の役割、人間の推理力などが一気につながっていったのは、これを読んでからだった。
科学というもの、専門的には大学で専攻すればいいが、一般の読者は誰のどの本の案内で読むかによって、その理解体験が大きく変わる。まずはガモフに導かれるべきである。
ぼくのガモフ全集は旧版である。当時は11巻立てで、それとは別にやや大判の「現代物理学の世界」全3巻が本格的な物理学・力学・電磁気学・化学・地球科学の入門書になっていた。いずれもぼくの書棚のなかで、最も箱が壊れかけている全集だ。いまページを開くとシャープペンシルの線がこっそり引いてあって、懐かしい。
ガモフ全集の改訂版コレクション。いまはこちらが手に入りやすい。まずはこの3冊でガモフ先生の洗礼を受けるのがいいだろう。いまなお、とてもびっくりするはずだ。宇宙の起源と量子力学と相対性理論のことは、21世紀の物理的世界観の大前提なのに、日本ではこれを学校で教えない。言語道断だ。だから子供にも先生にも必読なのである。
われわれの思考の基礎にあるものは、ひとつは数字、ひとつは物質だ。数字はさまざまな関数のアクターになって多様な意味をつくり、物質は原子核や素粒子となって時空を変化させる。その変化した意味の成果のひとつが生命であり、脳だったろう。ガモフに学ぶということは、人間が造りだした科学の道具と素材を最大限に使うと何が見えてくるかということである。その「見方の世界観」が重大だ。
ガモフは意外にもいまウクライナ問題で揺れているオデッサの出身である。レニングラード大学からケンブリッジに移り、アメリカに移住してジョージ・ワシントン大学やコロラド大学で教鞭をとった。最初は宇宙の核反応のプロセスを研究してトンネル現象の理論を導き、その後アルファ、ベーテらとビッグバン理論の原型にあたる宇宙の起源像を仮説した。「火の玉」宇宙はガモフの“発見”だった。1968年に急死したが、世界で一番の科学の先生だった。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)