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われわれはアフリカの巨木を原郷とする 21世紀はアフリカの百万年を折り返せるか 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
「いままで探し求めてきた何ものかを、ついに見つけた」とピーター・マシーセンは書いている。それがアフリカであった。しかしさすがのフィールドナチュラリストも、そのアフリカのいったいどこがアフリカなのか、すぐには突き止められない。アフリカはアフリカ中がアフリカなのだ。
東アフリカは人類発祥の地である。ルーシーもミトコンドリア・イブもここに誕生した。サハラ以南のアフリカは近代にいたるまでヨーロッパに知られていない暗黒大陸だった。そこから悪辣なアフリカ分割がおこり、アフリカは列強の餌食になった。しかし、アフリカには人類が住み着くずっと前から、風と植物と無数に動きまわるものたちとが棲息してきた。マシーセンはその原生のアフリカに辿り着いたのだった。そこには「ひとが生まれる木」(バオバブ)が誇り高く枝を伸ばし、葉を繁らせていた。
いまCSではほぼ毎日、ナショナルジオグラフィックやアニマルチャネルがすばらしい映像によってアフリカを見せている。ぼくもしばしば没頭する。けれどもいくら見ても、バオバブの畏怖や黒サイの巨魁感は掴めない。アフリカはあまりにも深甚で異様で別格なのだ。では現地を踏査してみたらどうなのか。マシーセンはそれを隈なく敢行したのだが、それでもアフリカの棲息者の途方もない息吹にひそむ謎めいたハイパープリミティズムは掴めないと言っている。
そうなのだ。原生アフリカはハイパープリミティズムの巣窟なのである。「元の元」なのだ。その「元の元」がバオバブのごとく現在の風景に毅然と君臨している。アフリカは時間をループさせる魔法をもっているのだ。それなのに、現在のアフリカはかつてのアフリカ分割と同様にグローバル資本主義の標的となり、他方ではエイズやエボラ熱などに侵食され、苦悩するアフリカの様相を呈するようになってしまった。こういうときは、アフリカをアフリカによるアフリカの言葉にしていくべきなのである。
マシーセンは、アフリカをアフリカそのままの言葉にできる数少ないナチュラリストで、作家である。かつてヒマラヤに取材した『雪豹』(ハヤカワ文庫)を読んでその原生感覚の描写力に驚いたのだが、『ひとが生まれる木』(講談社)はそれ以上だった。こんな一節が胸を刺してくる、「アフリカではどこででも立ち止まってみなければなりません」。
ヤーンは長年にわたってアフリカの基層文化の研究に携わってきたドイツの研究者である。とくに文学と芸術に詳しい。その目はつねに真性のネグリチュード(黒人)に向いてきた。そしてそこから、幾度となくアフリカの哲学の本質を取り出してきた。生命と集団とが交錯するントゥやクントゥの哲学を。本書にはアフリカの造形力の起源が凝視されている。なぜあのような強烈な彫塑や衣裳が生まれてきたか、そこを解明する。またルンバやブルースが一族共同体のリズムを創造してきた経緯が述べられている。アフリカンビートがかれらの魂のエンジンになってきたことが、よくわかる。ヤーンはそれらはことごとく様式という哲学で仕上がっていると見抜いた。
この本によって謎に包まれていたアフリカの相貌がやっと見えた。新書ではあるが、アフリカ全史と近現代史と現在史のほぼすべてが集約されている。とてもありがたかった。とくにザイール川、ザンベジ・リンポポ川、ニジェール川、ナイル川の4本の大河によって歴史を縦横に解読しているところが、読ませた。ヌビア諸国のこともビアフラ戦争のこともマンデラのことも、この一冊でだいたいわかる。しかし本書を読んで改めて感じさせられたことは、アフリカによって世界史は書き替えられなければならないということだった。アフリカは人類史と文明史のすべてなのである。もしアフリカがなかったならば、世界はこんなふうではなかったのだ。
原題は「足枷(あしかせ)をはめられた大陸」というものだ。怖いタイトルだ。ジャーナリストである著者は、エチオピア遊牧民、コンゴのゲリラ、盗賊に近い警官、ジンバブエの娼婦、マリのトラック運転手などの赤裸々な実態を通して、アフリカの民族紛争、独裁政治の元凶、蔓延する汚職、エイズ拡散などの軋みを炙り出している。とくに援助と投資がアフリカをいかに歪ませているか、その矛盾と欲望がぐちゃぐちゃにまじりあった現実を描写した。いまアフリカには世界最先端のハイテク技術が次から次へと導入されている。中国の札束外交も有名だ。しかし著者はそれらの投資と技術導入とがむしろ貧困を助長させていることを告発した。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)