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男もすなる日記を女もしてみむとてするなり 紀貫之のトランスジェンダー的「日本語計画」 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
承平4年(934)の12月21日、還暦を迎えた紀貫之は国司として赴任して足掛け4年いた土佐の国から京へ帰ることになった。1080年前の今日のことだ。55日間の旅だった。
その日記を貫之は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」というふうに、女性の書き手を擬装して綴った。それだけでなく、これを仮名で書いた。トランスジェンダーを擬装して、仮名日記をでっちあげたのだ。それが日本文学のみならず日本文化を大きく転換させた。
はたして最初からそうしたのかどうかは、わからない。当時、貴族や役人たちは「具注暦」という暦の余白に漢文で日録を付ける習慣をもっていたので、貫之もまず船旅の一部始終を漢文で書いておいて、のちに仮名の文体に書きなおしたのかもしれない。それにしても貫之が女のフリをして仮名の文章をつくりあげたことは、とんでもないイノベーションだった。もっとも貫之にはそんな大胆不敵をやってのける前歴があった。
貫之は紀望行の子で、紀友則とは従兄弟である。ただし青年期までのことはわかっていない。寛平5年(893)の有名な寛平の歌合(うたあわせ)で頭角をあらわし、落飾した宇多天皇が皇位を13歳の醍醐天皇に譲ったころ、『古今和歌集』の編者に抜擢された。このとき貫之は抜群のエディターシップを発揮した。序文に真名(まな)序と仮名序を併列させたのだ。
すでに菅原道真などによって漢詩と和歌を並べて併記することは試みられていた。しかし、そこをさらに踏み込んで「仮名による序文」を付けるなどということは、誰も思いついていない。しかもそこに「やまとうたは人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける」といったふうに、日本語による表記こそが日本人の心をあらわすにあたって最適なものであると宣言した。ぼくはこれを「貫之の日本語計画」の発動と名付けてきた。
日本人による日本らしい文化は、貫之が敢行した言語変革計画によって動き出したのである。いくら過大に評価してもいい。これに匹敵する歴史文化上のイノベーションはめったにあるものじゃない。
貫之が4年間の土佐守の任務を終えて都に帰るまでの55日間の日記。鳴門海峡を渡り、大坂の和泉・枚方・高槻・難波をへて石清水神宮から山崎越えをして洛中に入るまで、淡々と綴っている。むろん当時の風物を記録している点でも貴重な文章なのだが、これが仮名で書かれていること、女ぶりの日記になっていることこそが、日本表現史上においても、日本文化史の全体からしても画期的だった。
奈良朝以来、そもそも日記は男が付けるもので、しかもそのすべてが漢文だったのに、それを貫之が完全にひっくりかえしたのだ。この女装の仮名の文章が、のちの平安期の女房たちの日記文学の一斉開花を促した。
『土佐日記』はまた歌日記でもあった。その歌をよく読むと、貫之が鏡像効果を意識していたことも伝わってくる。海と空のイメージを、「ひさかたの月に生ひたる桂河 底なる影もかはらざりけり」「ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな」といったふうに、対比的鏡像的に詠んでいるのだ。これは男女を入れ替えた仮名日記が、実はそもそも鏡像的であることを暗示させたものでもあったろう。
貫之のことは深く知られるべきだ。歌人としては三十六歌仙として勅撰集に435首の和歌をのこし、オーガナイザーとしては数々の文芸サロンを率先し、そして『古今和歌集』の編者として真名序と仮名序を併記し、『土佐日記』では女による仮名書き文のプロトタイプをつくり、書人としては「高野切」や「寸松庵色紙」に流麗な筆跡を伝えた。
貫之なくしては日本文化の特色は語れない。とくに古今集の仮名序はなんとしてでも読みこみたい。
この本が紀貫之像を一変させた。正岡子規や与謝野鉄幹が貫之を「めめしい」「凡庸」だと詰(なじ)って以来、貫之は正当に評価されていなかったのである。それを目崎さんが一新し、貫之こそが和歌サロンの渦中をリードしながら日本語文化を革新したと指摘した。
貫之の計画は藤原公任に受け継がれ、さらに藤原定家によってその評価が確立し、王朝文化から物語文化に及んだ。百人一首には「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける」が採られた。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)