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樋口一葉の「蕗の匂いと、あの苦み」 今日、11月23日は一葉の命日です 松岡正剛

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樋口一葉の「蕗の匂いと、あの苦み」 今日、11月23日は一葉の命日です 松岡正剛

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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)  【BOOKWARE】

 今日11月23日は樋口一葉が亡くなった日だ。24歳だった。若くして比類ない才能を世に煌(きら)めかせて、慌ただしく消えていった。一葉がいなければ、与謝野晶子も尾崎翠も江國香織も、いなかったろう。しばし偲びたい。

 長谷川時雨は『近代美人伝』に「一葉は蕗(ふき)の匂いと、あの苦み」と評した。さすが時雨だ。ぴったりの表現だ。明治大正昭和の女たちの才能を一番見抜いていた時雨は、「あたしにゃどうしても書かなければならないことがあるのよ。それはね、一葉のことだよ」と言って亡くなったのである。24歳の才能はそれほど図抜けていた。

 一葉の資質は、早くも少女のころに草双紙や滝沢馬琴を読み耽っていたことに発していたようだが、中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)で和歌と古典を習って源氏を叩きこまれたことで、さらに磨かれた。それなら、そのまま明治を代表する歌人になっていてもおかしくなかったのだけれど、家が大変になっていった。父と兄が死に、一葉は17歳で戸主となって一家を支えなければならない。本郷菊坂で母子3人の面倒を見るため、針仕事を強いられた。

 そこへ「萩の舎」の同門の田辺花圃(かほ)が小説『薮の鶯』で多額の原稿料をもらった。一葉はこれでいこうと決める。20歳で『かれ尾花一もと』を書き、さらに朝日新聞の小説記者だった半井桃水(なからい・とうすい)に師事し、図書館に通いながら『闇桜』を書くのだが、桃水との仲が噂となると、一転、独自のスタイルに転ずることにした。それが露伴風の『うもれ木』だ。機転が強い気性だったのだろう。

 それでも生活は楽にはならない。相場師になろうかと借金をして元手を得ようとしたものの、これもうまくいかない。吉原遊郭近くの下谷(したや)龍泉寺町に引っ越して荒物と駄菓子などを売る店を開くのだが、これもダメ。さっさと本郷の丸山福山町に移って『大つごもり』を発表すると、ついで龍泉寺の日々を題材にした美登利と信如の淡い交流を綴った『たけくらべ』を文学界に7回連載した。これを鴎外や露伴や緑雨が激賞した。

 それからは『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』『裏紫』と続けさまに書き続けて、明治29年11月23日、体を蝕んでいた肺結核が治らず、24歳6カ月で死んだ。『大つごもり』から『裏紫』まで、僅か14カ月のことだった。日本文学史上、「奇跡の14カ月」と言われる。

 ぼくは『たけくらべ』にやられた。胸がきゅんきゅんして、一葉のフラジャイルな表現に驚き、その削いだ文体に感応した。が、その後、あれこれ読むようになって、大晦日の軽はずみな罪の思い違いを描いた『大つごもり』も、お力と源七の片割れ無理心中を物狂おしく綴った『にごりえ』も、直次郎がお蘭の婚約者の暗殺を決意する『暗夜(やみよ)』さえ、いとおしくなった。

 いまでは樋口一葉こそが、日本の女流文学のすべての原点で、日本の少女マンガの源流で、かつ、ユーミン、中島みゆき、椎名林檎のルーツだと思っている。一葉は五千円札の中なんかに、いないほうがいい。

 【KEY BOOK】「にごりえ・たけくらべ」(樋口一葉著/新潮文庫、391円)

 『たけくらべ』は少年少女文学としても、フラジャイルな作品としても、少女の邪険を描いた作品としても、傑作中の傑作だ。当時、このような少女の気持ちを絶妙な題材にしたものはなかった。加えて、少年と少女の目に映った下町の情緒や祭りの明滅が描かれている。主人公は勝ち気な美登利で、やがて遊女になっていく宿命をもち、信如はやがて青年僧になっていく宿命をもっている。

 そのやるせない交感がたまらないところへ、正太郎や長吉らの悪童なりの心の背伸びが挿入される。今日の少女マンガの原点でもあろう。『にごりえ』は粋な酒の座敷を舞台に、客の結城朝之助に惹かれたお力の身の上話から始まる。朝之助は静かにあしらう。そこへお力に入れ込んできた源七の妻子との葛藤が絡んで、ひょんなことから無理とも合意ともわからぬ無理心中に話が進み、お力が名状しがたいままに死ぬことになる。どうして一葉がこんな成熟した物語が書けたのかというほど、情景の内奥は爛(ただ)れるように美しい。

 【KEY BOOK】「大つごもり・十三夜」(樋口一葉著/岩波文庫、540円)

 『大つごもり』はせつなく、すれすれで、どこか身を切られる思いになる。それでもほっとした年越しになるという物語だ。山村家に奉公している18歳のお峰は、暇がもらえたので初音町の伯父の家に行くのだが、そこで借金の延滞金の必要を聞く。お峰は山村に借りようとするものの段取りがつかず、思わず引き出しから1円札2枚を盗む。大晦日、お峰の盗みが露見するのだが、意外な結末が待っていた。何事もなく年が明けるのだ。

 一葉の日々のディテールが変じた小説だ。『十三夜』は、夫の虐待に耐えかねたお関が実家に帰ると、父は怒り、お関は戻される。その帰途、上野で拾った人力車の車夫は幼なじみの録之助だった。煙草屋の一人息子だったのに、家産を食いつぶして自暴自棄になったようだ。2人はかつての淡い慕情を互いに隠して、黄昏の帳(とばり)が降りるなか、なんとも不思議な会話を続ける。「誰も憂き世に一人と思ふて下さるな」というお関のセリフが耳に残って離れない。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS

 ■まつおか・せいごう 編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。80年代、編集工学を提唱。以降、情報文化と情報技術をつなぐ研究開発プロジェクトをリードする一方、日本文化研究の第一人者として私塾を多数開催。おもな著書に『松岡正剛千夜千冊(全7巻)』ほか多数。「松岡正剛千夜千冊」(http://1000ya.isis.ne.jp/

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