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書物は華氏451度で燃え上がる 世界から「紙の書物」が少なくなっていく前に 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
年齢のせいもあるかもしれないが、ぼくはキンドルなどの電子ブックリーダーをゼッタイ使わない。すべての本は「製本された書物」として読んできたし、今後もそうするつもりだ。きっともっと若くてもそうするだろう。ぼくにとっての書物は、どんなに薄いものであっても、そこに「手ざわり」や「厚み」や「重み」が感じられることなのである。
かつて禁書や焚書(ふんしょ)がまかり通っていたことがあった。戦前の日本では多くの思想書が発禁になったり、黒塗りされていた。キリスト教社会でも多くの書物が禁書扱いされて、焼かれたり修道院の図書館の裏側に隠された。ショーン・コネリー主演の映画にもなったウンベルト・エーコの傑作小説『薔薇の名前』は、そうしたキリスト教社会における禁書の秘密を暴いたものだった。古くは秦の始皇帝が大量の書物を焚書した思想統制の例もある。
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』には焚書官が登場する。時の政府が禁止した書物を片っ端から焼いていく役目を担っている。ブラッドベリは当時のアメリカに吹き荒れていた忌まわしいマッカーシズム(赤狩り)を揶揄するため、未来社会に舞台を移してこのSFを書いた。不思議なタイトルは、書物が自然発火する温度をあらわしている。傑作だった。
この未来の町では書物のかわりに、市民全員に超小型の「海の貝」が与えられ、どこへ行くにもそこから流れる情報を聞くようになっていた。家に帰れば帰ったで、部屋に巨大なスクリーンが装置されていて、たとえ一冊の書物がなくともそこから提供される知識と娯楽で生活がたのしめるという制度なのだ。
ところが、意外なことがおこってきた。住民が「ぼくはスウィフトのガリヴァーだ」とか「私はマタイ伝」とか「ぼくはプラトンの『国家』だ」とか言い出し、一人ひとりが次々に書物化していったのだ。科学好きはアインシュタイン化し、アナキストはマハトマ・ガンジー化していったのである。
この物語はたいへん示唆的だ。われわれもいまや、インターネットと電子機器で情報と知識と娯楽の多くを享受するようになってきた。それらは万人に提供されつつあるけれど、そのぶん書物は個人の持ち物から脱落しつつある。これは「見えない焚書」がおこっているようなものなのである。銘ずべし。
主人公のガイ・モンターグは焚書官である。時の政府が制定した法律に従って市民がいまだ隠しもつ書物を捜し出して燃やすという役目だ。しかし、その町で最後の「聖書」を見たとき、ためらった。そのうち、住民の一人ずつが書物化していることに気が付いた。これはもはや焚書の対象ではない。書物というもの、なるほど人間と一緒くたになるものだったのである。ブラッドベリのSFとして、いまなお愛書家を泣かしている名作だ。
中世修道院のスクリプトリウム(図書館)をめぐる秘密に挑んだエーコの傑作中の傑作。修道士ウィリアムは或る殺人事件の調査に修道院を訪れ、特別の本にかかわった者が殺害されたことを突きとめる。キリスト教が長らく隠していた「反信仰本」が関連していた。エーコが「書物の両義性」にスリリングに肉薄した小説としてもたいへん得難い。どんな書物も、それを読む立場からすると良書にも悪書にも、薬にも毒にもなるものなのである。
碩学のエーコと劇作家のカリエールが「紙の書物」に対する熱い気持ちと蘊蓄を傾けながら対話した。贅沢で豊饒、かつ切実きわまりない一冊。書物に対する愛情が深く、また広い。とくに電子書籍よりも「紙の書物」のほうが、まだ読んでいない本が見えてくるのだという卓見を披露してくれているところが、いい。カリエールは『ブリキの太鼓』や『存在の耐えられない軽さ』の脚本家。
深刻なトラブルを引き起こした43冊の問題の書物を紹介するというワケアリの本。聖徳太子著とされた『未来記』、解禁まで200年かかった『ファニー・ヒル』、女性が書いた『O嬢の物語』、全文削除された太宰治の『花火』、ラシュディの『悪魔の詩』など、有名な禁書が採り上げられている。実はいまでも禁書や発禁は世界中でおこっている。猥褻本、政治関係、犯罪ドキュメント、差別関連、プライバシー侵害…。どんな書物も法だけは犯せない。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)