いつまで「ガキ使」を叩き続けるのか 何度も炎上した私が考える「バッシングの許し時」 (2/4ページ)

 これらは正しい姿勢ではあるものの、「いつまでやるの?」ということも同時に考える。今の段階において、日テレ、番組関係者は特番で再び浜田の黒塗りシーンは登場させただけに開き直っている面はあるものの、「今後はより慎重になるか」的なことは思っていることだろう。それと同時に「まさかここまで叩かれるとは…」とも思っているだろう。

 これまで12年間、ネットニュースを多数編集してきた私は炎上も何回も経験してきた。この経験を通じて分かったことは、バッシングが娯楽化しているという件である。バッシングを受ける場合、それはなんらか問題があるからである。炎上した側はその理由については多数のバッシング内容を見ればそこは理解し、「やり過ぎた…」「これから気を付けよう…」「当事者に対しては真摯に向き合おう」と思うものである。時に謝罪文は出すし、迷惑をかけた人間には実際に謝罪に出向き許しを請う。

 一方、バッシングをする外野は聖人君子としての立場から悪を叩くスタンスを取る。これは気持ちがいい。何しろ、他の多くの人間もその悪を叩いている様子が見えるだけに、自らの意見の正しさが次々と賛同されていく様が実感できるとともに、数多くの仲間とともに「社会を良くする」という崇高なる活動をしている感覚に浸れるからである。

◆日テレが謝罪しても燃料投下になるだけ

 さて、これからも逆風が続き、世間のバッシングの強さに音を上げ、ついに日テレが謝罪文を出したとしよう。しかし、そこで待っているのは「まだわかっていない」「問題はそこではない」「まったく反省していない。うわべだけ取り繕っている」とまた文句を言う機会の創出である。こうなれば、やぶへびで、単なる燃料投下になるだけだ。文句を言う人間は、いかに粗を探すか、ということを考えるのだから日テレはむしろ謝罪文を出さないという決断に至るかもしれない。

 実際、昨年9月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の30周年スペシャルで28年ぶりに「保毛尾田保毛男」が登場。ジェンダーについて無頓着だった時代のキャラが登場したことによりネットは炎上。フジテレビの宮内正喜社長は謝罪したが、フジテレビ叩きはしばらく続いたし、今ではテレビの差別表現を批判する際のケーススタディとして活用される状況になっている。

 また、最近の人権問題に関し、いわゆる「識者」と言われる人々は基本的には「バッシング」方向で一致する傾向がある。同じ人間が毎回登場しては批判をする。それはいいのだが、あまりその件に詳しそうではないにもかかわらず、毎度声をあげている。お前、黒人の歴史に詳しかったか? といった人でさえ声をあげる。識者であるからには、それほど詳しくないことについて軽々しく発言することは慎んでもいいかもしれないのに、声をあげる。

 うがった見方だが、「ここで声をあげなくては私も人種差別主義者だと思われてしまう……」という恐れをこの人達は抱いているのでは、と思うほどである。ツイッターを見ていると「そろそろAさんとBさんとCさんがこの件に首を突っ込んでくるな」という予想をすると12時間以内に大抵は首を突っ込んでくる。そして、ネットニュースで「Aさんもツイッターで●●とツイートし、この件について批判をした」などと引用され、論の補強に利用される。

バッシングが自殺に追い込んだ例も