□評論家 西部邁氏
■新技術に伴う「危険と危機」
原発をやめるかどうか目先の視点での議論が多いけど、私はまず文明論的な視野をもって考えるべきと言いたいですね。原発といえどもテクノロジーの一つにすぎない。その点では自動車とか家電、医療技術と同じです。新しいテクノロジーが登場するとそれには必ず危険が、というより予測不能の危機が伴うことを、みんな忘れていると言いたい。自動車の死亡事故は自分は家にこもっているから大丈夫と言っても、社会全体をみればだれかが事故の犠牲になっています。
こう言うと、原発事故で被曝(ひばく)すると体内の子供に影響すると不安を訴えるお母さんたちがいますね。確かに遺伝子への影響という問題は可能性として出てくるでしょう。そういう人はエゴイストですね。交通事故など社会全体のリスクをなくそうとは言わず、「放射線だけが特殊」とやり玉に挙げるのですから。チェルノブイリでは政府の警告がなかったため母親らが大量の放射性ヨウ素が含まれたミルクを飲ませましたが、その教訓を踏まえて福島ではそういう事態にはならなかったことも知るべきです。
脱原発を主張する人は核廃棄物を捨てる場所がなくなるからという論理を掲げる人もいます。ならば、火力発電から出る二酸化炭素(CO2)はどうなのか。空中で堆積して地球温暖化の要因になっている可能性があるのにこの問題に言及する人は少ない。火力発電もテクノロジーの一つですから、そうしたリスクがあります。
日本はいまIT偏重主義の弊害からか、技術は100%のものでなければならないとの風潮があります。これも間違いです。哲学の世界にはファリビリズム(可謬(かびゅう)主義)という、知識についてのあらゆる主張は誤り得るとの考えがあります。文明やテクノロジーにもこれは当てはまるというのが私の持論です。