技術者養成には、実験施設などが必要で、技術を体得させるにはカネも時間も要する。東京専門学校(現早稲田大学)を創設した元首相の大隈重信(1838~1922)は「学校は文系にしないと工業系は大変ですよ」と助言したが、敬一郎は一向に意に介さなかったという。
敬一郎は、元東京帝国大総長の山川健次郎(1854~1931)を総裁に招き、その後も私財を投じて教育の充実に努めた。第五郎も自ら教鞭を執った。
その甲斐あって明治専門学校は私学の雄として「西の明専、東の早稲田」と呼ばれるようになり、東洋レーヨン(現・東レ)元社長の田代茂樹(1890~1981)ら優秀な技術者を数多く輩出した。
残念ながら第1次世界大戦後の不況や九州製鋼への投資失敗などで資金不足に陥り、敬一郎は大正10年、明治専門学校を国に寄付した。これが現在の九州工業大学となった。
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西欧がアジアへの侵略を強めていた時代。敬一郎は日本が植民地になりかねないという危機感を持ち「富国強兵、殖産興業」に強い思いを抱いていた。
中国の革命家、孫文(1866~1925)らを支援したのも「日本の独立維持には中国や朝鮮など東アジア全体の近代化が必要だ」と考えたからだった。