安川敬一郎が私財を投じて創設した明治専門学校(安川電機提供)【拡大】
清朝打倒を掲げた孫文は1895(明治28)年、最初の武装蜂起に失敗後、日本へ逃亡し、政治団体の玄洋社総帥の頭山満(1855~1944)らの支援を受けながら東京で暮らした。福岡藩士に生まれ、藩校修猷館で学んだ敬一郎も玄洋社社員であり、頭山を通じて孫文を知り、多額の革命資金を提供したとされる。
詳細はベールに包まれているが、孫文は再び中国に戻って革命を主導し、1912(明治45)年、中華民国を樹立した。1913(大正2)年3月、一転英雄として来日した孫文は、戸畑の安川邸に1泊した。明治専門学校も訪ね、学生らを前にこう演説した。
「諸氏が当校に在学しているのは日本の進歩のためだけでなく、東洋の科学の進歩のためだ。諸氏は東洋発展のため大きな責任を負っているのです」
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敬一郎は官営八幡製鉄所の実現にも一役買った。
政府が日清戦争(1894~1895)で手に入れた賠償金3億円を元手に官営製鉄所建造計画を決めた当初、呉(広島県)、門司(北九州市門司区)などが有力候補だった。八幡は筑豊炭田に近いが、洞海湾の水深が浅かったため選外だった。