安川敬一郎が私財を投じて創設した明治専門学校(安川電機提供)【拡大】
「こんな大行事を無事に済ませる自信などあろうはずがないが、就任した以上は最善の努力を尽くす。もし失敗したとしたら責任は私にはなく、人選したあなた方にあります」
東京五輪は予定通り39年10月に開催され、大成功を収めた。新幹線や高速道路などの整備も急速に進み、日本のめざましい復興を世界に知らしめた。
中学修猷館時代からの旧友で、自由党総裁、副総理など歴任した緒方竹虎(1888~1956)は第五郎をこう評した。
「おそらく安川君は一生を通じて、ぜひ何になりたいと考えたことはいっぺんもない。何か難しい仕事が起こった場合(周囲が)彼を引き出そうとする。安川君も頼まれると断れない人で引き受けたのだろう」
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いつしか「担がれ屋」と称されるようになった第五郎だが、唯一前のめりになった事案がある。原子力発電の導入だった。
「核兵器から軍事の覆いをはぎとり、平和の技術に適合させるための術を知る人々の手に渡す」
1953(昭和28)年12月の国連総会。アイゼンハワー米大統領が原子力の平和利用を宣言すると、各国の電力会社は原子力発電導入に動き出した。
「これこそ資源に乏しい日本の未来を担うエネルギーだ」。こう直感した第五郎は、国内外の文献を集めて独学を始めた。
昭和29年12月、研究者や電力会社幹部ら有志が「原子力発電資料調査会」を結成すると、第五郎は会長に就任した。当時68歳だったが、毎月の勉強会も欠かさず出席した。最先端の科学技術を前に、東京帝国大電気工学科卒の技術者としての血が騒いだのだろう。