飛行する「YS-11」(三菱重工業提供)【拡大】
ビジネス視点足りず
YS-11には「外貨を稼ぐ」という戦後日本のミッションも課されていた。
「販売のノウハウがなかったため、一からの出発に意気軒高となった」。当時、日航製で海外販売の営業を担い、後に島津製作所社長も務めた矢嶋英敏氏(79)は打ち明ける。
「1機100万ドルと、競合機より2、3割高かったが、『安全安心』にこだわった機体で、手応えはあった」。単身アフリカまで乗り込んだ矢嶋氏や、商社マンが世界各地で営業、海外の航空会社にも売り込んだ。
YS-11は182機が製造され、75機が輸出されるという画期的な成果を残し、敗戦国・日本の航空技術の復活を印象づけることになる。
ただ、初飛行から約10年後の73年、生産中止になる。累積赤字は360億円に上っていた。当時を知るメーカー幹部は「半官半民ということで、ビジネスという視点が足りなかった」と指摘する。
その教訓は国産初のジェット旅客機「MRJ」に受け継がれることになる。