自己犠牲の淵源は武士道
海戦の勝利は、日本に制海権をもたらし、中国大陸への渡海派兵など、戦局全般を有利に進める重大な分水嶺(ぶんすいれ)となった。国家存亡の分かれ目は、名もなき戦士による自己犠牲の数であった、と言っても許されよう。キリスト者であった内村鑑三(1861~1930年)に学べば、自己犠牲の淵源(えんげん)は《日本における唯一の道徳・倫理であり、世界最高の人の道》と激賞されるべき《武士道》に認む。曰く-
《日本武士は、その正義と真理のため生命を惜しまざる犠牲の精神に共鳴して神の道に従った。武士道がある限り日本は栄え、武士道がなくなるとき日本は滅びる》
この点、戦力で全く上回る北洋艦隊だったが、水兵は言うに及ばず一部艦長までが怖(お)じ気(け)づき敵前逃亡を図る。北洋艦隊は母港である対岸の山東半島北東部・威海衛まで潰走する。聯合艦隊は追跡し、港湾口を塞(ふさ)いだ。北洋艦隊司令長官の丁汝昌(ていじょしょう)提督(1836~95年)は脱出を試みるも、果敢に斬り込む自己犠牲の実践者はいない。むしろ、水兵らは反乱を企て、脱出作戦を封じる有り様(さま)。清國軍には、軍紀や自己犠牲を支える武士道の如(ごと)き普遍的価値観が欠如していたと観て差し遣(つか)いあるまい。