一方日本の側は、伊東自身が武士道の実践者であった。丁に書信を送る。
《僕は世界に轟鳴(ごうめい)する日本武士の名誉心に誓い、閣下にむかいて暫(しばら)く我邦(わがくに)に遊び、もって他日、貴国中興の運、真に閣下の勤労を要するの時節到来するを竢(ま)たれんことを願うや切なり。閣下、それ友人誠実の一言を聴納せよ》
伊東は丁に対し、捕らわれても後に軍功を立てた幾多の先例を示しながら「活躍の場が必要とされる清國再興の時節到来まで、日本に亡命し待ってはどうか」と「武士道に誓い、友人の誠から」切々と訴えたのだった。丁は深く感じ入るも、丁重に断り服毒自殺を遂げ、北洋艦隊は降伏する。
極限でこそ見える国柄
伊東の武士道は尚(なお)続く。丁の棺が粗末なジャンク船で帰国すると聞くに至り、伊東は鹵獲(ろかく)した清國側輸送船を提供し、丁の亡骸(なきがら)の後送に充てる。葬送の日、聯合艦隊各艦は半旗を掲げ、松島は弔砲を撃ちて弔意を表した。タイムス誌が「丁提督は祖国よりも却(かえ)って敵に戦功を認められた」と報ずるなど、伊東の武士道は国際が絶賛する。
清帝は丁の財産を没収し、葬儀も許さなかったのだ。予期したかのように、丁は降伏に臨み「将兵らを赦(ゆる)し、郷里に帰還させてほしい」と要請。祖国ではなく、伊東の武士道を信頼している。