相変わらず警戒心たっぷりに、餌を盛った私が硝子戸を閉めて家中に入るまでは決して近寄らず、ふたつほどの間をおいてから寄ってきて、あまり美味しくもなさそうにもそもそやり始めた。柔らかい缶詰の餌は驚喜して食らうのだけれど、乾燥したものはもそもそやることが多い。あまりジロジロ見ては食べにくそうなので放っておいたら、途中で食らうのはやめて、ちょっとしんどそうに数歩歩いて座り込んだ。何となく尻尾に元気がない。歩き方も極端に弱々しく、ひどい喧嘩をしたか、それか大きな病気なのかもしれないなあと考えているうちにまた忽然(こつぜん)と姿を消した。
はっきりとしないまでもロスに「死」がまとわりつき始めたと私は感じる。以前にも一度「死」があいつの周りをふわふわ漂っていたように思うことがあったことを思い出す。「死」を漂わせる野良猫なんてのはあんまり気持ちの良いものでもないのだけれど、それは同時に「生」の強さも香らせた。苦しくても食らおうとするエネルギーは「死」を傍に輝く「生」だ。ところが今朝のロスに「生」の輝きは見て取れなかった。それどころかまばたきの間に姿を現したロスは、真実生きた猫であったのかどうかさえ定かでなくなる。