その写真集には、例えば、こんなものが写っている。元はまっ白なコットンだったと思われるセーラー服。茶色く変色し、燃えるというよりも熱に炙られるということの苦痛を知らしめる。戦時中に似つかわしくないほど華やかでかわいらしい小さな花柄のワンピースは、その朝、服に袖を通した少女の胸の高鳴りが聞こえてくるようだ。ああ、つらい。そんなものからは目を背けていたい。と、この記事を読む誰もが思うのだろう。だが、それを凝視することでしか近づけない広島が、確かにあるのだ。
穴だらけの防空頭巾、金属部分が酸化してしまった指輪、入れ歯の一部、破れた靴下、日本人形、炭化したせっけんなど、さまざまな遺留品を撮り続けた石内。いま降り注ぐ光と対話し、遺留品の呼吸に耳を澄ましながら、接写や俯瞰(ふかん)を織り交ぜ、それらを身につけていた、見知らぬ誰かに肉薄したいという純粋な願いが伝わってくるような写真たち。そして、写真作品になることによって、重苦しい呪縛から解き放たれ、浄化してゆく物たち。