門司駅の構内主任が、天皇行幸の妨げになるような脱線事故を起こしたとして、責任を取って自殺した一件も評価しない。当時の人は忠義の極みだと建碑運動を起こしたが反対。新聞でも反論した。本当の忠義は恥を忍んで生き抜いて、二度と事故が起きないようにする-との信念からだ。
ところが、その同じ文脈の中で、山川は続ける。
「乃木将軍の殉死は、いわば心約ともいうべきものだ。幾多の戦役で大勢の部下を死に至らしめた。お前方ばかり死なせんぞ、おれも追付け死ぬから、君等も死んでくれと、心に約束され、それを果たされたのだ」
山川は乃木の心約に心打たれた。一方で、生ある限り世のため人のために尽くして、この世を去るといった姿勢には、官軍・長州藩の支藩=長府藩士だった乃木と違い、会津藩士の家に生まれた者として、生きて朝敵の汚名を雪ぐ悲願も内在していたのではないか。山川が1914年に流した涙が裏付ける。この年、東宮御学問所評議員に選ばれるが、学習院院長になっていた乃木は殉死前、山川を推薦していた。時の皇太子、後の昭和天皇の御教育を担う名誉この上ない大任で、山川は「会津は朝敵ではない」と感激し、涙している。