ところが、千重子は艶やかな桜の木々から少し外れたところにある一本桜の方が好きだと語り、重なった花の隙間からのぞく若葉の大文字山に見とれる。その「咲き誇る桜だけでなく、まわりの景色も一緒に」見る姿勢が、じつに京都らしいと西村さんは語るのだ。
庭も、街の人々も、市街を囲む山々も、空も、互いが引き立てあってひとつの風景をつくり、「その調和の中に『美』を見出そうとする」京都。祇園祭の一体感や、毎朝自宅の前を掃除する習慣、庭の借景などもすべて「まわりを生かし、生かされる」京の文化からきているのではないかと西村さんは話し、それを読んだ僕は、自然と何度も頷(うなず)いているのである。
京都の最北、花背にある料理旅館「美山荘」の当主、中東久人さんは、父の書いた『京 花背 摘草料理』という本から、先代の思いを読み解く。細見美術館の館長、細見良行さんは、千宗室『茶の心』を読み、日本文化の「背骨」を感じる。清水寺の執事補、大西英玄さんは、京都新聞の連載を書籍化した『日本人の忘れ物 京都、こころここに』に日本ならではの心の在り方をみつける。伝統的な本や、歴史小説、京都の中華料理の本もあれば、最近の京都の空気をつかみとるような雑誌の紹介もある。本の舞台が京都でなくとも、京都人を通して出会った本は、すべて京都にまつわる本になってくる。