1984年12月19日、香港の主権返還を決めた「中英共同宣言」の調印文書を交換する中国の趙紫陽首相(右)と英国のマーガレット・サッチャー首相。趙首相の奥には当時の中国の最高実力者、●(=登におおざと、とう)小平氏の姿が見える=中国・首都北京市(AP)【拡大】
香港の民主派議員、李卓人氏(57)は「1989年6月4日に北京で天安門事件が起きた当時、その5年前の中英共同宣言の調印は明らかに失策だったと誰もが感じたし、調印する前段の中英交渉に香港人が誰一人加われなかったことも禍根を残した」と振り返る。
そもそも●(=登におおざと)小平氏は「一国二制度」を将来、悲願である台湾統一工作のカギと考え、先行的に香港で実験したといわれる。文化大革命が終結した後、改革開放路線にカジを切った中国で78年11月、●(=登におおざと)氏は台湾統一工作について「台湾の現状を尊重する」と述べて武力解放との従来の方針を改める意向を表明し、78年12月の党の重要会議で決定された。米中が国交正常化した79年1月、台湾との平和統一を目指す姿勢を示し、その後、82年に具体策として●(=登におおざと)氏が「一国二制度」を打ち出したのが始まりだ。
「一国二制度」の根本矛盾
前後してスタートした英国との香港返還交渉において、中国側が「一国二制度」をいわば“流用”して提示したところ、英国側が同意した経緯がある。真偽は不明だが、その過程で米国が●(=登におおざと)氏の周辺に「一国二制度」のアイデアを具申したと考えている関係者もいる。