たとえばアレクサンダー・ハラヴェの『ネット検索革命』、ニコラス・カーの『ネット・バカ』は、検索エンジンとその結果の表示の仕方にかなりの限界があるにもかかわらず、ネット社会がリアル社会の価値観を代行しつつあることを警告するとともに、それが一方で人間の知覚作用や判断作用をだんだん鈍化させつつあるのではないかとも警告した。
ぼくはネットで創造力やコミュニケーション力が落ちるとは思わない。仮にいまその傾向があったとしても、このあたりは必ず新たなソフトやユーザーの工夫によって回復する。しかし、想像力や仮説力はどうか。おそらくかなり劣化する。想像力や仮説力は当該の事態や事情からいったん離れることが必要なのに、ネットを見続けることがその重大な切断をおこせなくさせていくからだ。
ネットはときどき使えばいいのである。予約したり調べたり知らせあったりするには大いに役に立つ。けれども、ネットの中で結論を得ようとしたり、和解に達しようとしたりしても、うまくはいかない。ようするにネットで「最終」を求めるのは、やめたほうがいいのだ。それならどこで切り上げるのかだが、ぼくはちょっとでも苛々したり目が疲れると打ち切ることにしている。