100人の唐子は、繁栄や多産を表す、めでたい吉祥文様。ほかにも種が多くできて多産につながる石榴(ざくろ)や葡萄(ぶどう)、「福」と発音が同じ「(蝙)蝠」(コウモリ)、長寿を表す桃(もも)、富貴を象徴する牡丹(ぼたん)などが、宮廷の女性たちを飾る図柄として多用されている。
「万」に通じる蔓(つる)を持つ藤の花が描かれた「松石緑地粉彩過枝藤蘿紋碗」は、裏面に「大雅齋」と記された西太后専用の茶碗(ちゃわん)。豊かな色彩によって春の情景が描かれた官窯の名品だ。このほか西太后に関するものは、自筆とされる書画など十数点が展示されている。
「三大悪女」西太后
下級の満州旗人の娘だった西太后は、咸豊(かんぽう)帝の目にとまり、皇子を産んで妃となった。1861年の咸豊帝の死後、クーデターを経て、27歳の若さで政権を握る。6歳の幼い息子、同治帝の後ろのすだれの陰で、事実上、国政を操る「垂簾(すいれん)政治」を始め、同治帝の死後は、おいを光緒帝に据えたが、関係が悪化して光緒帝を幽閉。1908年に74歳で死ぬまで50年近く、政治を思いのままにした。
しかしその間、日清戦争(1894~95年)の敗戦で台湾などを日本に割譲。「滅洋」を掲げる義和団事変(1900年)も起こり、列強との戦争に発展して清は滅亡の一途をたどる。