自宅の屋根は吹き飛び、家族と近くのイチジク畑で過ごした。大きなけがはなかったが、かたまりのような大量の鼻血が数カ月続き、食料はなく、人々は道路の端を耕して、畑を作ったという。
「思い出してもいいことはない」と前向きに生き、定年まで働いた竹内さんは、被爆は運命だったと考える。
「今さら、痛かった、つらかったと言ったところで周りに分かってもらえるわけではなく、生活が良くなるわけでもない」
被爆直後、道路に寝かされたまま息絶えた人々に比べたら、との思いも強かった。70年という月日が痛みを和らげたが、子供にも、被爆した事実以外は一切話さず、沈黙を守る大勢の被爆者の一人だった。
沖縄や空襲を受けた町、戦後の生活、今も続く戦争被害をめぐる賠償や謝罪。「さまざまな形で、大なり小なり皆が犠牲者になるのが戦争なんです」(共同/撮影:共同/SANKEI EXPRESS)