日本ラグビーの父といわれる大西鐵之祐(おおにし・てつのすけ)が「闘争の倫理」と呼ぶその心は、戦争体験を通じて、彼が到達した境地だ。ルールでは可能な中、闘争のスポーツにどう倫理を滑り込ませるのか? 戦争中の人殺しを、ルール下にあるからと受け入れざるを得なかった彼は、忸怩(じくじ)たる思いをラグビーにささげたのだ。厳しく闘争的な日本代表のパント攻撃にも、(合法であろうと)相手の頭は傷つけまいという「情緒のコントロール」が働いている。だからこそ、その日の彼らは激しくも美しかったのだ。
大西鐵之祐は、『闘争の倫理』(2)で「ラグビーをする心」についても書いている。そこで彼はフェアプレイについて語るのだが、「勝ちたいためにきたないプレイをする人がいる。しかし決して楽しいゲームはできない」といい、そこには「闘争の倫理」が欠如していると看破した。