1985年9月22日の「プラザ合意」から30年経った。若者にはいまひとつピンと来ないかもしれないが、45年8月30日に続く「第2の敗戦」とも称されるほど、日本経済の運命を暗転させたのがこの国際合意である。
プラザ合意後の真実
その日、ニューヨークのプラザホテルに日米独(当時は西独)英仏の5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁が集まって、ドル高是正のための国際協調で合意した。ワシントン特派員だった筆者はその日、たまたまニューヨークに出張していて、記者会見場に駆けつけた。壇上では、身長2メートル超のボルカー米連邦準備制度理事会(FRB)議長の脇で、議長の肩にも届かない小柄な竹下登蔵相(当時、後に首相)が頭の上に手をかざして背比べのまねをしておどけていた。対米協調は表看板で、内実は対米追従の日本という構図を取り繕うとする、竹下氏特有の照れ隠しだったのだろう。実際に、合意後日本の大蔵省(現・財務省)と日銀は米国の求めに応じて、通貨・金融政策を展開することになる。