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書評
【書評】『朝露通信』保坂和志著
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『朝露通信』保坂和志著(中央公論新社・2000円+税)
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とある90代後半の女性がテレビで長寿の秘訣(ひけつ)を語っていた。頭をすっきりさせるために新聞の音読を欠かさず、年月日も新聞で毎日確認するのだという。カレンダーの数字だけでは迷ってしまうのだ。
たしかにこの老嬢も近代人だった。日付を1回限りの事件と結びつけていくのは、近代的な直線的な時間意識だ。一方、それ以前の農村漁村の日付は種蒔(たねま)きなど、それ自体に深い意味があり、そしてそれは毎年繰り返された。
しかし、保坂の時間は直線でも円環でもない。子供時代の記憶というぼんやりとした中心はあるが、意識はそこから縦横に伸び、その先で互いに縺(もつ)れあう。記憶力の弱さによる錯乱ではない。たとえば、記憶の中で自分の姿が見えることがあるばかりでなく、保坂の場合は、小説を書く自分を意識した途端に、自分の姿が斜め後ろから見えてしまうというのだ。それはなんらかの過去の記憶なのか、現在の幻視なのか。時間の錯綜(さくそう)は空間をも歪(ゆが)ませる。
しかしこのとりとめのない時間と空間のたゆたいに身を委ねることの心地よさといったら、他に比べるものが見当たらない。話は飛ぶが、支離滅裂ではなく、暴走することもなく、ただ緩やかに揺蕩(ようとう)するなかで、昭和30年代の鎌倉を知らない読者の私さえ、その記憶の一部を担っていたかのように錯覚してしまう。
これは新聞小説だった。そのことを強調するように連載1回ごとに大きく番号が振られている。しかし、必ずしもその順番に読まなければならないわけではない。どこから読んでもこの味わいは変わらない。漱石も、小説はふと開いたところから読めばよいと「草枕」では言っていたが、「こころ」のような新聞小説では、ミステリー的な話の展開で読者を引っ張る方法に頼った。一方、新聞という近代的時間の浸透装置の中にあってあえてそれを緩やかに攪拌(かくはん)する保坂のこの文章に身を委ねるとき、読者はいまだ見たことのない鎌倉や江の島に対するノスタルジーをかき立てられ、会ったことのない奈緒子姉やエモッちゃんと旧交を温めることになるだろう。(中央公論新社・2000円+税)
評・伊藤氏貴(文芸評論家)