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科学
【タイガ-生命の森へ-】妖怪? 秘密の湿地の主に遭遇
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流れの緩い支流に早春の森が映る。水辺には白濁したアカシカの足跡があった=2011年5月7日、ロシア・クラスヌィ・ヤール村(伊藤健次さん撮影) 5月のウスリータイガは早春の北海道の森によく似ている。大地を覆っていた雪がとけ、樹々が芽吹く前のほんの一(ひと)呼吸のような季節。森や水辺には、これから何かが始まる生命の予感があふれている。
ある年の5月初旬。クラスヌィ・ヤール村からウデヘのワシリー・ウシャコフとビキン川を遡(さかのぼ)った。雪どけで増水した春の流れは力強い。小さなエンジンをめいっぱい回しても、気を抜けば押し流されてしまいそうだ。
「まだ水が冷たいから落ちるなよ」。ワシリーが笑う。時折、川岸に隠れていたシノリガモが飛び立ち、色鮮やかな弾丸のように滑空していく。夏よりずいぶん時間がかかり、4時間あまりで狩小屋のあるカテン川との合流点についた。
狩小屋に泊まって森を探索していたある朝、ワシリーは倒木の重なる細い水路に舟を入れた。エンジンを切る。すると草木がいっせいに耳をそばだてるような静寂が広がる。舟竿が水を指す音が心地よく響く。秘密の水路をたどってモノトーンの映画の中に迷い込んだようだ。
ふいに水路が開け、思いがけず広い湿地に飛び出す。川が氾濫した跡だろうか、木立に囲まれた浅い池がひっそりしたたたずまいを見せている。水面の一角に、もこもこと立ち上がる枯れ草の妖怪のような一群があった。
北海道でもおなじみの“谷地坊主(やちぼうず)”だった。
≪北海道の原風景に息づく タフな暮らし≫
谷地坊主は釧路湿原など寒冷な湿地に見られるスゲ類の独特の群生だ。地下茎が旺盛なカブスゲなどが冬に凍結して株ごと隆起し、春には融雪水が周辺を浸食して形成されるといわれる。50センチほどの谷地坊主になるまで実に数十年もの歳月がかかるという。
秘密の湿地の主。そんな風情の谷地坊主を眺めながら、ウスリータイガでまたひとつ北海道の原風景に出会った思いがした。
自由に蛇行する原始河川、河畔に続く深い針広混交林、シマフクロウの鳴き声…。タイガのさまざまな時と場所で、北海道がこの150年の近代化で失った風景に出会った。谷地坊主を抱くこんな何気ない水辺も、日本で失われた自然の象徴的な風景だろう。明治以降の開拓、そして高度成長期、湿地は“不毛な土地”として開発され、見放されてきた。今、北海道に日本の湿原の約80%が集中しているが、その面積は1920年から90年頃までの間に約60%も減少したという(「北海道の湿原」北海道新聞社)。
一方で近年、世界3大漁場ともいわれるオホーツク海が、アムール川上流の森や湿地から流れ出す滋養分で育まれていることに注目が集まっている。国境を越えた陸と海のつながり、つまり一見無関係に思えるほど離れた森や湿地の生態系が、下流の海や私たちの暮らし自体を支えていると分かり始めたのだ。
三陸の牡蠣(かき)漁師は「魚付(うおつ)き林(りん)」の重要性に気づき、「森は海の恋人」として北上川上流の森林保全に力を注いでいる。そんな目で見れば、このタイガはいわばオホーツク海の恵みの源。“オホーツク海の恋人”といえるかもしれない。
ワシリーが谷地坊主の周りをゆっくり回ってくれたので、僕は喜んでタイガの谷地坊主を写した。だが彼が見ていたのは谷地坊主ではなく、周囲の水底に残された動物の足跡だった。何かが乱雑に歩いた跡があり、白く濁った水が、その主が去ってから間もないことを語っていた。
「シト エータ(これは何?)」
「イジューブリ(アカシカだ)」
ワシリーは餌となる水草を求めてアカシカが水辺に来ていることを確認すると、よしとうなずきながら引き返すのだった。
行きには気づかなかったが、池の端のアムールニレの木の上に、簡素な猟師の“待ち場”が設えてあった。ウデヘの猟師は森の奥から水辺に獲物が出て来るのを狙い、夕方、一人で木に登っていく。そして夜な夜な待ち場で過ごし、動物が水辺を歩く音を頼りに仕留めるのである。
オホーツク海の恋人の森には今も北海道の原風景があり、そこにタフな猟師が暮らしている。(写真・文:写真家 伊藤健次/SANKEI EXPRESS)